フェラーリやマセラティと公道レース ACエース・ブリストル 3台のみの空力ボディ 前編

公開 : 2022.11.05 07:05

6台体制のACエース・ブリストル

当時は上位争いにプライベートチームも加わり、ワークスマシンとしのぎを削る様子が観衆を沸かせた。自らの地位や名誉を高めようとする、地元の裕福なクルマ好きにとっては格好の見せ場といえた。

前年の1956年に、ACカーズはACエース・ブリストルを発売。この英国製スポーツカーは、排気量2.0L以下のクラスで高い戦闘力を持つと考えた人物がいた。実際、カラカス1000キロメーターズには、プライベートで6台のACエースが参戦している。

ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)
ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)

カラカスには、ACカーズが支援したドライバー、フアン・ジャック・フェルナンデス氏がいた。彼はクルマの販売店を営んでおり、ベネズエラは同社にとって大きな市場になっていたのだ。

フェルナンデスはACエースを4台、ACエース・ブリストルを31台、アシーカ・ブリストルを5台など、合計41台を輸入。その能力は、既に現地の公道で確かめられていたといっていい。

参戦した6台のうち、予選で1台が脱落。本番では、英国人ドライバーのスターリング・モス氏が駆るマセラティ450Sとのクラッシュで、別の1台もリタイア。フェルナンデスも18周目でリタイアに喫した。

それでも、残りの3台は総合16位と17位、21位でフィニッシュしている。この17位と21位のACエース・ブリストルには、ドイツの技術者、カール・ペンツ氏によるチューニングが施されていた。

ベネズエラのレニー・オットリーナ氏と、コロンビアのアントニオ・イスキエルド氏という2人のドライバーが駆った2台は、空力特性が向上してあった。高い最高速を求めて。

空力特性を改良するチューニング

今回後こ紹介する、シャシー番号BEX148のACエース・ブリストルも、ペンツのワークショップでボディが改良された1台。カラカス1000キロメーターズには参戦していないが、改良された3台で唯一生き残ったクルマだという。

BEX148のACエース・ブリストルは1956年4月に生産工場を離れ、ベネズエラのオスカー・ルピ博士が購入。ペンツのチューニングとして、シャシー下面を覆うアンダーパネルなどが装備されていた。

ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)
ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)

エンジンルーム内の空気を逃がす、フロントフェンダーの大きなエアアウトレットが見た目の特徴といえる。タイヤは5.50x16インチから6.00x16インチへサイズアップされ、ホイールアーチも膨らみを増している。

フロントガラスの高さが低いことや、カバーの付いたヘッドライトなどもペンツの提案によるもの。全長は通常のACエース・ブリストルから300mm以上も伸び、フロントノーズは同時期のマセラティやフェラーリのような雰囲気を漂わせる。

空力特性が良くなるだけでなく、スタイリングとしての美しさも高められていた。小さな英国製ロードスターに、イタリアのワークスマシンに引けを取らない風格を与えていた。

ルピは輸入直後からACエース・ブリストルを戦わせた。ベネズエラのヴァレンシアで1956年に開かれたエスタド・カラボボ・トロフィーでは、2.0L以下のクラスで4位に入賞。1957年のラ・モンタナ・ヒルクライムは9位でゴールしている。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ウィル・ウイリアムズ

    Will Williams

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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