ビートルズやボブ・ディランも選んだサルーン オースチン・シアライン ヴァンデンプラ・プリンセス(1)

公開 : 2024.01.28 17:45

より優雅な容姿が目指されたプリンセス

対して、プリンセスのスタイリングは、ヴァンデンプラ社の技術ディレクター、ジョン・ブラッドリー氏が担当。ヘッドライトにフェアリングが付き、フェンダーはボディと一体にされ、より優雅な容姿が目指された。

スチールとアルミニウムが組み合わされ、深い艶を生み出すべく、塗装は合計14回。リアタイヤにはスパッツが備わる。

ヴァンデンプラ・プリンセス A135 4リッター・リムジン(1952〜1968年/英国仕様)
ヴァンデンプラ・プリンセス A135 4リッター・リムジン(1952〜1968年/英国仕様)

シャシーは2台で共有し、メカニズムもほぼ同一。2t前後の車重を受け止めるため、オースチンとして初めて油圧ブレーキが装備された。

フロント・サスペンションは独立懸架式。コイルスプリングとウィッシュボーンに、アームストロング社製のレバーアーム・ダンパーという組み合わせ。リアはリジッドアクスルで、半楕円リーフスプリングに、同じくレバーアーム・ダンパーが組まれた。

メカニズムを滑らかに保つための、グリスポイントは26か所と多い。1600km毎の注油が必要で、1940年代の基準でも手間のかかる仕様だった。そこで電動油圧式ジャッキをシャシーに内蔵。前後のタイヤを簡単に浮かせられ、整備性を高めていた。

キャビンには、まだ目新しかったヒーターとラジオを搭載。ウォールナットとレザーを贅沢に用いたインテリアは豪華で、オースチンとしては最も複雑な仕立てといえた。

発表は、1947年のスイス・ジュネーブ・モーターショー。当初のエンジンはオーバーヘッド・バルブの3.5L直列6気筒で、プリンセスにはトリプルキャブレターが載り、シングルキャブのシアラインより10ps強力だった。

フォーマル・サルーンとしての地位を確立

ところが、1947年の末に4.0Lへ変更。同時にシアラインとプリンセスの型式も、A110とA120から、A125とA135へ更新されている。英国の道路税制度の切り替えに沿ったものだった。

この直列6気筒ユニットは、GM傘下のトラックメーカー、ベッドフォード社製エンジンの設計へ強い影響を受けていた。だが、加圧潤滑システムやベアリング交換を比較的簡単にした構造を持ち、カムシャフトの改良などが施され、独自の特徴も備わる。

ヴァンデンプラ・プリンセス A135 4リッター・リムジン(1952〜1968年/英国仕様)
ヴァンデンプラ・プリンセス A135 4リッター・リムジン(1952〜1968年/英国仕様)

アルミ合金製でフィンの付いたオイルサンプや、ノイズを軽減するロッカーカバー、クランクの免震ダンパーなども採用。サルーンに適した上質さも目指されていた。

1949年には、ホイールベースを300mm以上伸ばし、3353mmとしたシアライン・リムジン(DM1)が登場。合計700台がラインオフし、上級モデルの選択肢が限られた英国だけでなく、海外でもフォーマル・サルーンとしての地位をある程度確立していった。

だが、肝心のアメリカでは充分な結果を残せなかった。それが、その後のブランドの運命を左右したといっていいだろう。

標準ホイールベースのシアラインは、1948年から1954年までに約7000台がラインオフ。競争相手の少なさと、ベントレーの半分以下という価格設定のおかげで、堅調に売れたといっていい。

シアライン終了後は、スタイリングで勝るプリンセスが、1968年まで需要を受け持った。シャシーの製造自体も、ヴァンデンプラ社で賄われた。

この続きは、オースチン・シアライン ヴァンデンプラ・プリンセス(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

オースチン・シアライン ヴァンデンプラ・プリンセスの前後関係

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