同じ出発点 異なる到達点 ランチア・ガンマとシトロエンCX 協力関係が生んだ2台 前編

公開 : 2023.05.21 07:05

協働プロジェクトとしてスタートした、ガンマとCX。似たシルエットを持ち、異なる結果へ至った2台を英編集部が振り返ります。

パートナー関係だったシトロエンフィアット

ランチア・ガンマとシトロエンCXを目前にすると、1970年代の自動車はより自由で、デザイナーの個性を存分に発揮できたのだと再確認できる。受け止める方も寛大だった。CX 2000と2200は、1975年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを受賞している。

流麗なデザインで多くの注目を集めたDSの後継に当たり、シトロエンの基準からすれば普通さを強めていた。4ドアサルーンだけでなく、リムジンやステーションワゴンへ派生し、1974年から18年間のモデルライフで100万台以上のCXがラインオフした。

レッドのシトロエンCX 2400 GTiと、シルバーのランチア・ガンマ・ベルリーナ
レッドのシトロエンCX 2400 GTiと、シルバーのランチア・ガンマ・ベルリーナ

他方のランチア・ガンマは、フィアット傘下に収まりつつ、ブランドらしさを強く残したモデル。フルビアと、その派生版の2000の次世代として、1976年に発売されている。ところが信頼性が影響し、生産数は1万5000台にも満たない。

営業成績的には真反対にある2台だが、実は部分的な繋がりを持っている。1970年12月から1973年6月までの約2年半、タイヤメーカーのミシュランの主導で設立された持ち株会社を通じ、シトロエンとフィアットはパートナー関係にあったのだ。

1934年からミシュラン傘下にあったシトロエンは、新型サルーンの開発へ必要な資金を求めていた。ランチアを傘下にするフィアットは、相手の高度な技術へ強い関心を寄せていた。むしろ、買収の意向もあったようだ。

しかし、事前に噂を聞きつけたフランス政府は、イタリアの自動車メーカーの動きに懸念を抱いていた。ひと足先の1968年に、当時の大統領、シャルル・ド・ゴール氏は株式の取り引きへ制限をかけている。

横から見たシルエットが似ている2台

そもそもミシュランも、フランスの誇り高き自動車メーカーを国外の大手へ売り渡すつもりはなかった。フィアットを所有するアニェッリ家は、その事実を理解していなかったようだ。

それでも、CXとガンマは協力関係のなか1970年に開発がスタート。ランチアはY2のコードネームで呼び、シトロエンはプロジェットLと呼んだ。

ランチア・ガンマ・ベルリーナ(1976〜1983年/英国仕様)
ランチア・ガンマ・ベルリーナ(1976〜1983年/英国仕様)

どちらもパッケージングは良く練られており、車内空間は外寸からすれば広い。2.0Lを超える大きい4気筒エンジンを積み、前輪が駆動されるという共通点を発見できる。

横から見たシルエットが似ているものの、これは偶然だった可能性もある。CXのスタイリングを担当したのは、カーデザイナーのロベール・オプロン氏。ガンマを手掛けたのは、イタリアのレオナルド・フィオラヴァンティ氏だ。

1967年に発表されたコンセプトカー、BMC 1800 ピニンファリーナ・エアロダイナミカもフィオラヴァンティによるものだが、CXと似ていることは否定できない。何らかの影響を受けていたと考えても、不思議ではない。

パートナー関係により、プロジェットLはランチアの水平対向4気筒エンジンを積む計画になった。Y2はハイドロニューマチック・サスペンションをリアに実装し、高圧システムでブレーキを動作させることが検討された。

シャシーを構成するフロアパンも、共有が前提。フランス・パリとイタリア・トリノの技術者は、今のような通信手段がないなか、協働で複数の試作車を製作した。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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