フェルディナンド・ピエヒを偲んで 彼のキャリアと生み出されたクルマ 前編

公開 : 2019.08.31 05:50  更新 : 2019.08.31 09:38

フォルクスワーゲンのドンともいえたフェルディナンド・ピエヒが、現地時間の2019年8月25日に亡くなりました。享年は82歳でした。AUTOCARでは、自動車業界を牽引し続けた彼を偲び、代表ともいえるモデルを振り返ってみたいと思います。

もくじ

フェルディナンド・ピエヒを偲んで
フェルディナンド・ピエヒの幼少期
ポルシェ917(1969年)
メルセデス・ベンツOM617エンジン(1974年)
アウディ製5気筒ユニットの開発(1976年)
アウディ・クワトロ(1980年)
アウディV8(1988年)
フォルクスワーゲンのCEOへ(1993)

フェルディナンド・ピエヒを偲んで

フォルクスワーゲン・グループの会長を勤め、自動車業界で世界的に最も影響力のある人物のひとりでもあったフェルディナンド・ピエヒが、2019年8月25日にドイツの病院で亡くなった。彼の妻、ウルスラによれば、レストランで突然倒れ病院へ搬送されたものの、そのまま亡くなったという。享年は82歳だった。

優れた実力を持ち高く評価されつつも、必ずしも良い話だけではなかったピエヒ。圧倒的なリーダーシップと決断力、エンジニアリングの知識を活かして、フォルクスワーゲンを世界最大の自動車メーカーへと成長させた立役者だった。彼の偉業を、彼が生み出したクルマとともに振り返ってみたい。

若かりし頃のフェルディナンド・ピエヒ
若かりし頃のフェルディナンド・ピエヒ

フェルディナンド・ピエヒの幼少期

ピエヒは1937年4月17日に、オーストリアのウィーンで生まれた。祖父はオリジナルのフォルクスワーゲン・タイプ1・ビートルを開発し、後に誰もが知るスポーツカーメーカー「ポルシェ」を創設したフェルディナンド・ポルシェ。フェルディナンドという名前も、祖父にちなんで付けられたものだった。

ピエヒは名前だけでなく、祖父の持っていたエンジニアリングに対する情熱や才能も受け継いでいた。スイスのチューリッヒ工科大学で機械工学を学び、後に語り継がれる、フォーミュラ1のエンジン開発に関する論文をまとめている。大学卒業後は1963年にポルシェへ入社し、研究開発部門の有力人物となり、頭角を現すことになる。

ポルシェ在籍時代
ポルシェ在籍時代

ポルシェ917(1969年)

ピエヒはポルシェ917の開発に携わり、重要な役割を果たした。軽量でパワフル、空力に優れたマシンはライバルを驚愕させ、サーキットを席巻。ピエヒは後に、ポルシェ917は自身のキャリアの中でも最もリスクの高いクルマだったと振り返っている。開発には膨大な費用がかかったものの、初シーズンは活躍しなかったからだ。だが、その投資は翌年から報われる。

ポルシェ917は当時としては最も速く、最も高い成功を収めたレースカーとなり、いまでも評価は高い。1970年のル・マン24時間レースでの優勝は、広く知られているところだ。

ポルシェ917(1969年)
ポルシェ917(1969年)

メルセデス・ベンツOM617エンジン(1974年)

1971年になると、ポルシェのテクニカル・ディレクターに就任したピエヒ。自動車メーカーでの彼の将来は明るいものに見えた矢先、ポルシェ家のメンバーは会社を指揮するポジションについてはならないとポルシェが決意し、1972年に退社を迫られた。ポルシェとしては、ビジネス上の問題が家族仲へ影響しないように、との思いで決めたことだったが、その後数十年に渡り、確執は残ってしまった。

退社したピエヒは、ポルシェとメルセデス・ベンツが拠点を置く、シュツットガルトにエンジニアリング会社を設立。するとメルセデス・ベンツは、4気筒エンジンをベースにした自然吸気5気筒ディーゼルエンジンの開発を、ピエヒへ依頼する。ピエヒは1974年にW115型のメルセデス・ベンツ240 3.0へと搭載される、OM617型ユニットを開発した。さらにW115型とW123型の300DやW116型とW126型の300SDにも搭載され、メルセデス・ベンツは100万マイル(160万km)を走るクルマを製造する、という高い評価へと結びつけた。

メルセデス・ベンツOM617エンジン(1974年)
メルセデス・ベンツOM617エンジン(1974年)

OM617型ユニットはモータースポーツとの距離も近く、ターボを組み合わせて最高出力を190psにまで高めたユニットを開発。1976年にテスト車両のC111−IIDへと搭載され、イタリアのナルド・サーキットで16の記録を作っている。

 

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