【不発のカブリオレ】ブリストル405とラゴンダ3リッター ドロップヘッド・クーペ 前編

公開 : 2020.11.01 07:20  更新 : 2022.08.08 07:35

ブリストル405とラゴンダ3リッターという、戦後に誕生したドロップヘッド・クーペ。BMWとアストンによるエンジンを積んでいながら、評価は不振。50台前後という少ない台数で幕を閉じています。詳しくご紹介しましょう。

3リッターが55台、405が43台

text:Martin Buckley(マーティン・バックリー)
photo:James Mann(ジェームズ・マン)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
1950年代、勢いを強めるジャガーに立ち向かった高級車、ラゴンダ3リッターとブリストル405。減速傾向にあった高級市場へ投入された2モデルの生産台数は、合計でも1000台にも満たない。

両車をベースに、4シーターのカブリオレ(ドロップヘッド・クーペ)も追加された。1951年のジャガーMkVドロップヘッドの終了と入れ替わるように、より特化したブランドからの発売だった。

ラゴンダ3リッター・ドロップヘッド・クーペ/ブリストル405ドロップヘッド・クーペ
ラゴンダ3リッター・ドロップヘッド・クーペ/ブリストル405ドロップヘッド・クーペ

ラゴンダとブリストルからの新モデルに、ジャガーは慌てる必要もなかった。ドロップヘッド・クーペの売れた台数は、3リッターが55台で405が43台。微々たる数字だ。

アルビスやジェンセンといったメーカーも、大きな4シーターのカブリオレを生産していた。しかしジャガーMkVIIIやMkIXの2倍近い価格の付いた、ラゴンダやブリストルは別格。高級車市場に対応できる、確かな作り込みを備えていた。

どちらのブランドも、少量生産で営める余裕があった。短期間でより特別なモデルを具現化する、柔軟性も備えていた。

ベントレーまでは手が出せない、裕福な層に向けられた両車。細部まで上質な仕上げが施され、手作りで個人的な要求にも応えた、ドロップヘッドだった。戦後、熟練の職人を安価に雇えた時代だからこそ、生まれたクルマでもあった。

一方で、資金力のある人は価格に鈍感でも、イメージには敏感。ラゴンダもブリストルも、市街地ですれ違うことはほとんどなかった。自動車に大金を注ぎ込んだことに、優越感を覚える人のためのモデルになっていた。

努力するも販売が伸びなかったブリストル

4ドア・セダンとしてブリストル405が発表されたのは、1954年のパリ自動車ショー。英国では戦後の配給が終了した年だ。

ラゴンダ3リッターは1953年のパリで、一足先に発表されていた。1954年にはオープンとクローズド・ボディが選択できるようになり、技術者のW.O.ベントレーが設計した2.6Lユニットを搭載。第二次大戦後、英国車として発表された初の新モデルの1台だ。

ブリストル405ドロップヘッド・クーペ(1954年〜1958年)
ブリストル405ドロップヘッド・クーペ(1954年〜1958年)

ジャガーは、高いコスト意識を持っていた。一方のラゴンダとブリストルは、政府の補助金なしでは立ち行かなかったはず。幅広い技術力を持つ企業として、獲得した力量を示す戦利品のようなクルマだったともいえる。

ブリストル・エアロプレーン・カンパニーは、戦後の労働体制維持という目的で、自動車産業に手を広げた。しかし、順調に業績が伸びることはなかった。

しばらくすると、航空機の民生需要が復活。飛行機の機体やエンジン製造が主力事業として盛り返し、自動車製造は脇役になった。

かといって、1950年代に自動車部門がサボっていたわけではない。オーバードライブが標準装備で、100Bと呼ばれる106psのエンジンを搭載した405を発表。同時にショート・ホイールベース版の404クーペが、403と並行して作られた。

キャビンが著しく後ろに位置するスポーツカー、ブリストル450ル・マンがブランドのイメージを牽引。タイプ220と呼ばれる新モデルの計画も進めていた。ところが、親会社の航空機部門の都合で、とん挫している。

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