【GR GT&レクサスLFAコンセプト誕生前夜】トヨタから新たにスーパースポーツが生まれた背景とは?『悔しさ』から生まれたカウンターストーリー!
公開 : 2025.12.06 07:05
トヨタは12月5日、『GR GT』、『GR GT3』、『レクサスLFAコンセプト』という3台を発表しました。そこに至るまでにはふたつの『悔しさ』がありました。ワールドプレミアに参加した編集部ヒライのレポートです。
発明の精神が生まれた場所にて
トヨタ自動車(以下トヨタ)は12月5日、完全なるニューモデルとして新型スーパースポーツカーを、静岡県裾野市にあるウーブンシティでワールドプレミアした。発表されたのはロードカーの『GR GT』、レーシングカーの『GR GT3』、コンセプトカーの『レクサスLFAコンセプト』という3台だ。
GR GT3は2022年にコンセプトカーが登場し、そのロードカー登場も予告されてきた。またレクサス名義では今年8月のペブルビーチ・コンクールデレガンスで『スポーツコンセプト』を公開し、ジャパンモビリティショー2025でも展示されたので、実車をご覧になった方も多いだろう。今回の3台が、その答え合わせとなった形だ。

プレゼンテーションに登壇したのは、トヨタ自動車執行役員のサイモン・ハンフリーズ氏、そして代表取締役会長の豊田章男氏。先に登場したハンフリーズ氏は、会場が元々トヨタ東富士工場で、1967年に中村健也氏と豊田章一郎氏が初代センチュリーを生み出した『発明の精神が生まれた場所』と説明。
そして、強さの物語はふたつの『悔しさ』から始まると話を始めた。英語でのスピーチだが、『悔しさ』をはっきりと日本語で発音したほどである。
まずは14年前、2011年のペブルビーチでレクサスGS350をワールドプレミアし、豊田氏が記者と意見交換をしていた時のこと。ひとりの記者が「レクサスはいいクルマだが、退屈だ」と評したという。
ハンフリーズ氏はこの出来事を「屈辱」と(これは英語で)表現。これが大きなターニングポイント、強い決意の源となり、豊田氏は「もう二度と退屈なクルマは作らない」と誓ったそうだ。そして今年のペブルビーチへ、自信を持って『レクサス・スポーツコンセプト』を出展したのである。
20年前のニュルブルクリンク
もうひとつの悔しさは、20年前のニュルブルクリンクだった。当時のトヨタはニュルで走れるようなクルマを作ろうとせず、市販のスポーツカーすらなかった。
マスタードライバーを務めていた成瀬弘氏は当時副社長の豊田氏に「言葉やデータではなく、現物に触れて議論せよ」、「いいクルマ作りはひと作りから」と説き、80型スープラで徹底的な走行訓練を行ったという。

しかしニュルを走っていると、カモフラージュをした何台もの他社開発プロトタイプに道を譲ることになり、「トヨタさん、あなたたちにこんなクルマ作れるわけないでしょ」と言われているかのようだったと振り返る。その悔しさこそが、今も豊田氏の原動力になった。
成瀬氏は2010年にニュル近郊の事故で亡くなってしまうが、当時開発していたレクサスLFAが出来上がった時に「前だけを見てニュルを走れたのは初めてだ」と、見たことのない笑顔で豊田氏に語ったことが忘れられないそうだ。
その後、マスタードライバーを成瀬氏から受け継いだ豊田氏。成瀬氏が残した『クルマ作りの秘伝のタレ』は、「あの悔しさだったと思う」と語る。そして、その悔しさを共有できる仲間もまた、成瀬氏が残したものだと。
通常、発表会の場はポジティブな話、時には美辞麗句が並ぶことが多く、こうした悔しさをはっきりと述べるのは極めて異例。しかし3台のスポーツカーが生まれる背景として、どうしても語られるべき『ストーリー』だった。
豊田氏はその後、「GR86、スープラ、ヤリス、カローラ、水素エンジン、スーパー耐久、ニュルブルクリンク、そして今回の3台など、同じ思いで作っている仲間がこんなにもたくさんいる」と続ける。そして、こうした仲間たちと秘伝のタレを未来に残していきたいと。
そう語る豊田氏の背後には多くの『仲間』の写真が写し出され、両手を広げて語るその目が少し潤んで見えたのは、果たして気のせいだろうか。


































































































































































































