30馬力でも半端ないスピード感 ジャンニーニ500 TV アバルト695 SS 凝縮された楽しさ 前編

公開 : 2023.01.22 07:05

アバルトをライバル視したジャンニーニ

アバルト・チューニングのヌォーヴァ500は、イタリア・モンツァ・サーキットへ姿を現すと、標準モデルとの能力の違いを広くアピールした。意欲的な走りで。

1963年9月には、マイナーチェンジを受けたヌォーヴァ500 Dをベースとした独自モデル、アバルト595を発売。エンジンのストロークは変えず、ボアアップすることで排気量は499ccから593ccへ拡大されていた。

アバルト695 SS(595ベース/1964年/欧州仕様)
アバルト695 SS(595ベース/1964年/欧州仕様)

キャブレターはシングル・ウェーバーが標準だったが、ソレックスへ変更。圧縮比が高められ、シリンダーヘッドにも手が入り、最高速度120km/hを実現させた。

半年後の1964年には、さらにチューニングを加え最高出力33ps/5000rpmを達成した595 SSを投入。続いて695 SSとハードコアなアセットコルサも追加され、こちらは690ccから38ps/4900rpmを獲得している。

他方、イタリア中部のローマでアバルト&Cをライバル視していたのが、ジャンニーニ・アウトモビリ。事業が軌道に乗るまで苦労と時間を要し、結果的に海外へ知れ渡ることもなかったが。

小さなチューニングブランドの起源は、1920年代に遡る。ドメニコとアッティリオというジャンニーニ兄弟がローマ北東部のヴィコロ・デッラ・フォンターナ地区に、小さなガレージをオープンさせたのが始まりだった。

自らのための速いクルマを求めた2人は、1940年代後半に高性能な750ccユニットで幾つかの勝利を掴んだ。ミッレ・ミリアではクラス優勝を果たし、専用エンジンの受注へと繋がった。

1950年代に入るとイタリア経済は復調。兄弟のビジネスも順調に成長を果たした。

排気量は499ccのままながら25psを達成

事業拡大の一環として、フィアット・ディーラーも営むようになるが、兄弟の関係性は悪化。アッティリオは息子2人ともに、CMG(コストルツィオーニ・メカニケ・ジャンニーニ)社を設立。ローマ郊外に転居し、新たなガレージを開いた。

一方のドメニコと息子のフランコは、1961年にローマでジャンニーニ・アウトモビリ社を創業。フィアットの量産モデルを販売しながら、アバルトのビジネス展開をなぞろうとした。ところが、専用パーツを製造する設備がなかった。

手前からジャンニーニ500 TVと、アバルト695 SS
手前からジャンニーニ500 TVと、アバルト695 SS

そこで依頼を受けたのが、独立したCMG社。多くのフィアットと同様に、ヌォーヴァ500もジャンニーニ兄弟の対象になった。

1963年に投入された500 TVでは、排気量は499ccのままながら、ポート加工したヘッドに専用ハイカム、大きなアルミニウム製オイルサンプ、点火タイミングを最適化したディストリビュータ、大型キャブレターなどを採用。5200rpmで25psを叶えた。

続く人気モデルとなったのが、ジャンニーニ590 コルサ。排気量を増やし33psまで高め、アバルトへ立ち向かった。だがライバルとは異なり、視覚的な変化は限定的だった。

1970年代に入ると兄弟はブランドの方向性に悩み、1973年に実業家で株主のヴォルファンゴ・ポルヴェレッリ氏が買収。フィアット・ベースの事業は1987年まで続けられたが、主な仕事は市営バスのメンテナンスへ変わってしまう。

GMC社の専用パーツ製作は、1971年に終了していた。現在のジャンニーニ・アウトモビリ社はカロッツエリアとして政府車両を手掛けつつ、フィアットのアフターサービスへ関わっている。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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