運転したい衝動へ駆られる ランボルギーニ・カウンタック 歴代4モデルを比較する(1)

公開 : 2023.12.03 17:45

カウンタックからディアブロ、ムルシエラゴ、アヴェンタドールへ進化を続けたランボルギーニのスーパーカー 英国編集部が4世代を比較し振り返る

当時の誰もが驚いたカウンタック

1970年の冬、ミドシップ・スーパーカーの祖先といえる、ランボルギーニ・ミウラの後継モデルが決定した。その鮮烈な姿に、イタリア・ピエモンテ州のなまりが混ざった「クンタッチ(カウンタック)」という叫びが、デザインスタジオへ響いたらしい。

スタッフの1人が口にした、心からの驚嘆だった。同社を創業したフェルッチオ・ランボルギーニ氏ですら、スタイリングには衝撃を受けたという。1971年のジュネーブ・モーターショーで発表されると、主役級の話題をさらった。

ランボルギーニ・カウンタック 5000S(1974〜1990年/英国仕様)
ランボルギーニ・カウンタック 5000S(1974〜1990年/英国仕様)

ランボルギーニ・カウンタックは、今でも信じられないほど低い。ナイフで面を削り出したようなウェッジシェイプは、魅力の塊といえる。

マルチェロ・ガンディーニ氏らしい、上端がストレートにカットされたホイールアーチと、多角形のサイドウインドウが呼応する。リアエンドは、僅かにカーブを描く。

自社開発のV型12気筒エンジンは、キャビンの後方へ縦置き。トランスミッションは前方へ伸びる。鋭利なドアは、上方へ優雅に開く。

カロッツエリアのベルトーネ社も、コンセプトカー、ストラトス・ゼロを彷彿とさせるモデルが量産されることには驚いたらしい。最高速度300km/hが主張され、同じくコンセプトカーだったアルファ・カラボ譲りのシザーズドアを備えて。

このカウンタックは、ランボルギーニの進むべき道を照らした。完璧なグランドツアラーを作るという、フェルッチオの当初の夢は大きく成長し、サンタアガタの工房から前衛的なスーパーカーが連綿と生み出されることになった。

大量の注文が寄せられるものの株式は売却

前例のないデザインが故に、カウンタックの量産仕様が完成したのは、1973年のジュネーブ・モーターショー。納車が始まったのは、1974年だった。

シンプルだったボディサイドには、三角形のNACAダクトが開けられた。インテリアはシンプルになり、フロントノーズも現実的な処理へ。プロトタイプが掲げていた、LP500というサブネームは消えていた。

ランボルギーニ・カウンタック 5000S(1974〜1990年/英国仕様)
ランボルギーニ・カウンタック 5000S(1974〜1990年/英国仕様)

縦方向に積まれたエンジンは、ミウラ譲りの3929cc V型12気筒。サイドドラフト・ウェーバーキャブレターが6基載り、最高出力380psがうたわれたが、予算の厳しさを物語っていた。事前に宣言されていた、300km/hの最高速度には届かなかった。

それでも、捌ききれない注文が寄せられた。1970年代のランボルギーニ、イタリアにおいては、需要に応える数を生産すること自体が、大きな課題の1つだった。

大規模なストライキが頻発し、失業者は増加。オイルショックとインフレ、政治的混乱が重なり、ランボルギーニの経営にも大きな影響が及んでいた。月産10台という目標すら、叶えることは簡単ではなかった。

フェルッチオは、最終的に自らが保有していた49%の株式を売却。有能な技術者も、サンタアガタを離れてしまう。

そんな苦悩を横目に、フェラーリは年間数1000台という大量のモデルを販売していた。アメリカには空前のスーパーカー・ブームが到来し、カウンタックの注文も止まらなかった。多くのスタッフが、工房には残ってもいた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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