VWの資金で磨かれた技術 ランボルギーニ・ディアブロ ムルシエラゴ 歴代4モデルを比較する(2)

公開 : 2023.12.03 17:46

カウンタックからディアブロ、ムルシエラゴ、アヴェンタドールへ進化を続けたランボルギーニのスーパーカー 英国編集部が4世代を比較し振り返る

明確に新しく広い車内を備えるスーパーカー

世界的なスーパーカー・ブームの尾は長く、ランボルギーニの野望は次世代へ展開する。だが、1971年のジュネーブ・モーターショーの頃と同じく、創出は簡単ではなかった。

当初のスタイリングを担当したのは、デザイナーのジョルジェット・ジウジアーロ氏が率いたイタルデザイン社。「L150」のコードネームで数案が検討されたものの、経営陣のゴーサインは得られなかった。

レッドのランボルギーニ・ディアブロと、ホワイトのカウンタック 5000S
レッドのランボルギーニ・ディアブロと、ホワイトのカウンタック 5000S

状況を打開するため、フェラーリアルファ・ロメオのF1エンジニアを務めた経歴を持つ、ルイジ・マルミローリ氏へ指揮者を交代。マルチェロ・ガンディーニ氏と、再びプロジェクトが進められた。

予算は限られ、カウンタックのスチール製スペースフレームと、パワートレインを踏襲することが前提になっていた。なおかつ明確に新しく、広い車内を備えるスーパーカーが目指された。

この頃、ガンディーニはランボルギーニから独立した技術者、クラウディオ・ザンポーリ氏と別のプロジェクトも進めていた。そのチゼータV16Tと差別化されつつ、ロー&ワイドでソフトエッジなディアブロが描き出された。

開発が進む傍ら、1987年にランボルギーニは3000万ドルでクライスラーに買収される。イタリアを訪れた、会長のリー・アイアコッカ氏と設計責任者は、仕上がったばかりのプロトタイプへ試乗。改良すべき点をリストアップした。

販売が伸び悩んだディアブロ

ガンディーニは渡米し、デトロイトでスタイリングのブラッシュアップを進めた。アメリカ人の嗜好へ合わせ、バンパーが変更されリアウイングを追加。フロントフェンダーとサイドウインドウのラインが、テールへ向けてアグレッシブに結ばれた。

設備の改修も加わり、生産開始は計画より遅延。技術者には、最高速度315km/hという目標達成に充分な時間が与えられた。1987年までにV12エンジンは5729ccへ拡大され、独自の燃料噴射システムの採用も決まった。

ランボルギーニ・ディアブロ(1990〜2001年/英国仕様)
ランボルギーニ・ディアブロ(1990〜2001年/英国仕様)

後に独自のスーパーカー・ブランドを立ち上げる技術者のオラチオ・パガーニ氏は、カーボンファイバー素材を研究。カウンタックの半分以下の重さという、鋼管スペースフレームの強化へ役立てられた。四輪駆動システムの開発も、同時に進行した。

スタイリングは風洞実験で検証。空気抵抗係数のCd値を0.40から0.31へ落とし、時速200マイル(321km/h)という最高速度が達成された。

ディアブロという名は、社内投票で採用。1869年に闘牛士を殺した雄牛の名前だったが、ランボルギーニのモデル名を決める方法が、確立した瞬間でもあった。

量産仕様の発表は1990年。ところが、1980年代を湧かせた好景気は減速し、カーコレクターの資金も縮小傾向に陥った。

告知されていた、パワーステアリングと四輪駆動システムが搭載されたのは、1992年のディアブロ VTになってから。当初15万ポンドだった価格は16万ポンドへ上昇し、販売は伸び悩んでしまう。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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