死してなお 今はなき自動車メーカーが残した名車 39選 後編 消えない灯火

公開 : 2022.02.20 06:06

数々の自動車ブランドが立ち上がっては消えていく。そんな儚い歴史の中から、彼らが残した名車を紹介する後編。

スチュードベーカー・アヴァンティ(1962年)

アヴァンティは、スチュードベーカーが天空のガラクタ置き場に消える前の最後のあがきだった。シボレーコルベットに対抗して開発されたアヴァンティは、レイモンド・ローウィのデザインによるボディはグラスファイバー製で、ラークの改造シャシーに載せられている。その後、5人の企業家が交代で2006年まで製造した。

スチュードベーカーはどうなったのか?

1963年に米サウスベンド工場での生産は終了したが、1966年までカナダの工場で生産が続けられた。現在は、自動車部品会社のフェデラル・モーグルがその名を所有している。

スチュードベーカー・アヴァンティ(1962年)
スチュードベーカー・アヴァンティ(1962年)

シムカ1000ラリー(1970年)

アバルトはシムカ1000に魔法をかけたが、ルノーやNSUに代わってリアバイアスのスリルを求めるエンスージアストの心を捉えたのは、3つの「ラリー」モデルである。空力的に難があったとはいえ、1000は予算内で購入できる高性能セダンのベースとして理想的なモデルであった。

ラリーモデルの最初の2台は市販用のホットロッドモデルだったが、「ラリー3」はホモロゲーション用の本格的な公道レースカーとして発売された。3モデルともに、現在でもヒルクライムイベントで広く使用されている。

シムカはどうなったのか?

シムカ1000ラリー(1970年)
シムカ1000ラリー(1970年)

1970年にクライスラーに、1979年にはPSAプジョーシトロエンに買収され、以後シムカの名はタルボに取って代わられた。

サンビーム・タイガー(1964年)

1901年に設立されたサンビームは、1935年以降姿を消していた。しかし、1950年代の米国のオープンスポーツカーの波に乗り、1953年にキュートなアルパインとともに復活を遂げた。

より大きなパワーを求めていたサンビームは、キャロル・シェルビーの協力を得て、最高出力166psのフォード4.3L V8を搭載する。アルパインの2倍のパワーを持ちながら、車重はわずかに軽いというこのタイガーは、わずか3年で7000台以上を売るヒットとなった。

サンビームはどうなったのか?

サンビーム・タイガー(1964年)
サンビーム・タイガー(1964年)

ルーツ・グループの一員であったが、クライスラーに吸収され、さらにプジョーに吸収された。1981年、サンビームの名は消滅した。

タトラ613(1974年)

ポルシェ911と同じように、リアエンジンというレイアウトが流行しなくなってからも、タトラ613はその姿を保ち続けていた。先代の603と共通だが、そのスタイリングは白紙に戻された。チェコスロバキアのタトラは、イタリアのヴィニャーレ社との異色の提携により、時代にマッチした新しいデザイン・アイデンティティを打ち出したのである。

今やソビエト連邦時代の東欧を代表する名車として記憶されている。KGBやワルシャワ条約機構に所属する組織のお気に入りだったため、夜中の2時に家の前に停まっているのを見るのは嫌なものだ。

タトラはどうなったのか?

タトラ613(1974年)
タトラ613(1974年)

1999年に自動車製造を中止したが、小規模なトラックメーカーとして存続しており、プジョーに次いで欧州で2番目に古い自動車メーカーとなっている。タトラの創業は1850年で、馬車を製造していた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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