5.0LのV8エンジンによるフォーミュラーマシン F5000を振り返る 後編

2019.09.14

100字サマリー

5.0LのV8エンジンに巨大なタイヤ。高まる名声とお金。少しマニアックですが、50年前に欧州だけでなく各国でブームとなっていたF5000というカテゴリーのレースを、当時のドライバーの話とともに振り返ります。

もくじ

レーサー、ブライアン・レッドマンが振り返る
タイヤが硬くドリフトしっぱなし
世界各国で独自に展開したF5000
国際的なグランプリは開かれなかった

レーサー、ブライアン・レッドマンが振り返る

translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

1972年、F5000でのレッドマンの不幸を横目に、幸運を得たのはグラハム・マクレーだったが、彼は大胆な発言や激しい気性で「カシウス(ローマの戦士)」と呼ばれていた。ニュージーランドのウエリントンで生まれたマクレーは、ドライバーとしてもエンジニアとしても、1972年までに成功を収めていた。タスマン・シリーズでの連勝のほか、SCCAのタイトルも獲得し、ヨーロッパでも多くのレースで勝利を上げた。

マクレーはロンドンの仲立人、ジョン・ヘインズの力を借りて、技術者のマルコム・ブリッジランドを起用。F1マシンのマクラーレンM19Aから発想を得たコークボトル・ラインを持つレダLT27を開発する。その後マクレーGM1へとマシン名を改めている。

F5000カテゴリーのマシン
F5000カテゴリーのマシン

さらにボディをボックス形状としたGM2をレースチームへ販売するものの、好調は長く続かなかった。スピードが出たものの信頼性が低く、ニュージーランド人ドライバーのクリス・エイモンが1975年に1勝を挙げただけに留まる。1973年10月には、マクレーが所有していたプール・ファクトリーは、ペンスキーのF1プロジェクトへと売却されてしまう。

だがマクレーはその後に26勝を挙げ、タイトルも4度獲得。1978年のオーストラリア・グランプリではワンオフ・マシンのGM3で優勝している。コクピット周りが透明なF5000マシンは最も有名な彼のマシンかもしれない。

1973年、ローラ社のアメリカの輸入業者だったカール・ハースは、シャパラルのボス、ジム・ホールの意見もあり、ドライバーにレッドマンを指名した。「わたしはスポーツカーのドライバーだと記憶されているようですが、アメリカF5000で戦った4シーズンはキャリアの中でも最高の時でした」 と振り返るレッドマン。 

 
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