「たら?れば!」へ想いが巡る シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1) フィアットV8のスポーツレーサー

公開 : 2024.03.24 17:45

1953年のレースには間に合わなかった

自身のカスタム・ワークショップを立ち上げると、裕福なカーマニアたちが注目。不動産業で財を成したトニー・パラバノ氏や、石油業で成功したビル・ドヒニー氏もマカフィーを慕い、事業資金の支援を得て、シアタ・ディーラーの開業計画が進められた。

1952年のニューヨーク・モーターショーで、25台の輸入が決定。シアタの創業者、アンブロジーニ家は、盛大な祝賀会で新しいビジネスを歓迎したという。

シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)
シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)

とはいえ、シアタ社は無名なブランドだった。1952年のカレラ・パナメリカーナで、フェラーリ340 クーペをドライブし5位完走を果たしていた彼は、1953年のレースをシアタで戦い、認知度を高める作戦を立てた。

しかし、208 CS メキシコ・クーペの完成は間に合わなかった。出場は翌1954年へ延期されたものの、前述の通り走ることはなかった。

11月19日からのスケジュールに遅れたという説はあるが、10月16日にカリフォルニア州パームスプリングスで開かれたロード・レースには参戦している。1500cc以上のクラスで7位に入っているから、恐らくこれは違うだろう。

その2週間後には、同州モレノバレー郊外の空軍基地で開かれた、オレンジ・エンパイア・スポーツカー・レースにも出場。ホワイトとブルーに塗り分けられたドラマチックなボディは、観衆の話題をさらった。だが、完走はできなかったようだ。

フェラーリ500 モンディアルで参戦

ピストンに関わるエンジン不調が原因だった、という説もある。だが、最も信ぴょう性が高い理由は、フィアットがV8エンジンの生産を終了したことだと考えられる。シアタへの供給も停止し、アメリカで知名度を上げる必要性は、ほぼ消滅したといえた。

シアタ208はハンドメイドで、最終的な生産数は50台。その内、スパイダーが35台を占めている。マカフィーが依頼した208 CS メキシコ・クーペが、最後の1台になった。シャーシ番号は、BS537だ。

シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)
シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)

その頃の彼は、ロサンゼルス中心部、サンセット・ブルバードにフェラーリの正規ディーラーを立ち上げてもいた。最終的に、ドミニカ共和国の外交官、ポルフィリオ・ルビローサ氏とペアを組み、フェラーリ500 モンディアルへ変更し参戦している。

かくして、スタートから16kmを過ぎたところで、500 モンディアルはオーバーヒート。早々にカレラ・パナメリカーナをリタイアしているが。

レース後、マカフィーはフェラーリの輸入へ専念。ユニオン76ブランドの石油王、ドヒニーの希望へ応えるように、121 LMもオーダーした。鮮やかなブルーの塗装にホワイトのラインが入り、4.4L直列6気筒エンジンをフロントに搭載。これは極めて速かった。

マカフィーは、その121 LMを1956年のレースに向けて準備した。スポンサーへちなんで、ゼッケンは276番。カリフォルニア州サンタバーバラのイベントでは、マセラティ300Sを0.05秒差でしのぎ勝利し、強さを証明することでビジネス拡大へ繋げた。

この続きは、シアタ208 CS メキシコ・クーペ(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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