デ・トマソ時代のヴィンテージ マセラティ・シャマル 誤解されたクーペ 前編

公開 : 2022.03.05 07:05

ブランド苦難のデ・トマソ時代に誕生したシャマル。気難しいイメージが先行するクーペを、英国編集部がご紹介します。

経営権はシトロエンからデ・トマソ

マセラティシャマルは、至ってハンサム。しかしインターネット上には、悩めるオーナーの体験談が少なくない。果たして、中身の伴わない伊達男だったのだろうか。

シャマルのベースになったのは、1981年に発表されたマセラティ・ビトゥルボへさかのぼる。ショッピングカートのように、手に負えないコーナリング特性を持つといわれた、2ドアクーペだ。

マセラティ・シャマル(1990〜1996年/欧州仕様)
マセラティ・シャマル(1990〜1996年/欧州仕様)

その先代より、ホイールベースが短い。AUTOCARの読者ならご存知かと思うが、一般的にホイールベースは長い方が安定性は増す。さらにツインターボで加給される、V型8気筒エンジンをフロントに搭載している。

その動的能力に、必ずしもポジティブな評価が与えられることはなかった。耐久性でも。

では、2022年に乗るシャマルはどうだろう。現代基準でも充分に速い、洗練されたグランドツアラーであることが見えてくる。

重箱の隅は突かない方が良い。ネガティブな個性が現れるのは限られた条件でのみ。さほど恐れる必要はない。筆者には、過小評価なクラシックカーに思える。その理由も、わからなくはないけれど。

1980年代から1990年代にかけてのマセラティは、苦難の時代にあった。シャマルも、そんな時代に生まれた。その中心にあったのが、デ・トマソ社だ。

時間を1970年代まで巻き戻すと、モデナに創業した歴史あるブランドは長く混迷していた。シトロエンからマセラティの経営を引き継いだイタリアの持株会社、GEPI社は、事態を打開すべく、1975年8月にアレッサンドロ・デ・トマソ氏と提携を結んだ。

多売のモデルが目指されたビトゥルボ

他者の資金で、悩める企業を買収するというビジネス・スタイルに長けていたアルゼンチン生まれのアレッサンドロは、イタリア政府の支援でマセラティの株式の11.25%を取得。経営権を握ることになった。

彼がマセラティのために事前に支払った金額は、当時で64ポンドに過ぎなかったという。既に、労働力の半分が失われていたが。

マセラティ・シャマル(1990〜1996年/欧州仕様)
マセラティ・シャマル(1990〜1996年/欧州仕様)

マセラティの完全な所有権も保証されていたアレッサンドロは、ブランド再建に取り組んだ。そこで誕生したのが、上級4ドアサルーンのクアトロポルテIIIと、2ドアクーペのキャラミだった。

といっても、クアトロポルテIIIはデ・トマソ・ドーヴィル、キャラミはロンシャンの兄弟モデルといえる内容。販売は伸びず、多売なエントリー・モデルが必要だと判断された。

そこで設計されたのが、新しい2ドアクーペだ。モノコック構造は、デ・トマソ社のイタリア・イノセンティ工場で製造。オールアルミ製のV6ツインターボ・エンジンとランニングギアは、モデナのマセラティ工場で作られた。

完成したシャシーとドライブトレインは、ミラノ郊外のランブレッタ工場で結合。ビトゥルボという名前で、1981年に発表された。生産は1982年12月に始まっている。

複数のモデル展開を望んだアレッサンドロへ応えるように、4ドアサルーンも1983年に追加。ホイールベースが伸ばされ、425というモデル名が与えられた。カロッツエリアのザガート社が製造を請け負った、スパイダーも発売された。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 撮影

    オルガン・コーダル

    Olgun Kordal

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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