ランボルギーニ・ミウラP400にデビューから半世紀後に試乗 「本質は、やはり野獣」

公開 : 2017.03.31 16:00  更新 : 2017.05.29 19:21

今なお高い人気を誇るランボルギーニ・ミウラ。ミドシップ・スポーツカーの存在を世に知らしめたエポックメイキングなモデルということができるでしょう。そのミウラの初期モデルであるP400のステアリングを今、改めて握ってみます。(姉妹サイト、CLASSIC & SPORTSCARより転載)

 

「フェルッチォのチームが生み出した傑作、ランボルギーニ・ミウラは、それまでのクルマの常識を覆すものでした」マーティン・ポートはそう語った。そして、ほぼ半世紀を経た今も、ミウラに匹敵するクルマは存在しないという。

まずはベア・シャシーから公開された不思議な生い立ち

見ただけで足が震えるようなクルマ。そんなクルマは確かに存在する。自分にとってはジャガーE-タイプがそれだという人は多い。また、それが911だという人もいる。いずれも美しさとドライブする喜びを兼ね備えたクルマたちだ。しかし、スーパーカーを定義するのであれば、息をのむようなパフォーマンス、シンフォニーのようなサウンド、卓越したハンドリング、驚愕するようなルックス、そのすべてを兼ね備えたクルマのことであろう。

闘牛の血統にちなんだ名前故か、牛の角と尾を連想させるスタイル。


1965年のトリノ・オートショーにおいてミウラP400のむき出しのシャシーを公開したランボルギーニだが、そのベア・シャシーはまさしくスーパーカーであった。それから4ヶ月後。ボディを架装したものの、まだエンジンを搭載していないプロトタイプがジュネーブ・モーターショーにおいて公表された。誰もがスーパーカーだと認めた世界初のクルマである。

その公表以来、多くの人々がそのデザインのルーツを解明するべく論評をしてきた。マルチェロ・ガンディーニか、その前任のジョルジェット・ジウジアーロ、どちらがこのシンボリックなスタイルをデザインしたのかが論争の種になったのである。

ジウジアーロ自身が「ミウラのデザインを手掛けたのはガンディーニだ」と一度は語ったにもかかわらず、1964年時点の原案スケッチを公開したことで再度疑問が持ち上がることになった。

ミウラのデザインは誰が担当したのか

事の真相に最も迫ったのが、実はCLASSIC & SPORTSCARの2年前の記事だった。その記事は、ジウジアーロのアシスタント・デザイナー、ピエロ・ストロッパの証言だった。ガンディーニが、ミウラのプロトタイプのシャシーに被せるボディのラインを引くところを確かに見た、というものだった。

いずれにしても、ひとつだけ確かなことがある。それは、フェルッチオ・ランボルギーニが、このデザインから生まれた無敵のウエポン、ミウラを手に、エンツォ・フェラーリに挑戦したこと。そして、それがその後の長きにわたる戦いの口火となったことだ。

P400、P400Sには「まつ毛」の付いたヘッドランプ・サラウンドが装備された。


ミウラのコンパクトなシャシーを覆う独特でかつ心がうずくような美しいボディ。そのスタイリングをデザインしたのは、確かにガンディーニかもしれない。

しかし、ミウラの完成度にとって、後にジャンパオロ・ダラーラが改良を施したジオット・ビッザリーニ作品のクアッドカムV12 3929ccエンジンも欠くことのできない要素だったと言える。エンジンを極力シャシーの中央に寄せ、重量配分を向上させるために横置きとし、潤滑系をミニと同様にトランスミッションと共有させた。

ミドシップの公道スポーツカーのベンチマークとなる

ミウラは、355psを誇る一方で、ただパワーだけのクルマではなかった。このクルマがそれまでの常識を塗り替えた点は、猛烈な加速や最高速度ではなく、ミドシップの公道スポーツカーというコンセプトのベンチマークとなったその総合性能の高さにあった。

これに比肩し得るクルマとしてはフォードGT40が存在したものの、こちらはどちらかと言えば公道走行よりもサーキットを念頭に置いて設計されたクルマだった。

ジュネーブ・ショーの2年後、トリノ・オートショーでミウラP400Sがデビューする。このモデルは、ヘッドライトのリム、そしてウィンドシールドのモールがクローム・メッキになり、一部のスイッチのレイアウトを、航空機を思わせるオーバーヘッドコンソールに変更した。また、吸気ポートを2mmほど拡大し、燃焼室を調整したおかげでパワーも20ps向上した。

また、リアのダブル・ウィッシュボーンのマウントを調整することで、ハンドリングも向上した。

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