70年生き抜いた「ベルトーネ」スパイダー アルファ・ロメオ・ジュリエッタ(2) 試作と思えない完成度

公開 : 2024.03.10 17:46

デザイナーのフランコ・スカリオーネ氏が手掛けた、アルファのスパイダー ピニンファリーナの影に消えた美貌 1台限りのプロトタイプを英国編集部がご紹介

量産に向かなかったベルトーネのデザイン

ピニンファリーナ社の案を選んだアルファ・ロメオの判断には、いくつか理由が考えられる。1つ目は、ベルトーネ社が既にクーペのジュリエッタ・スプリントを量産していたことだ。

生産効率を高めるため、多くの技術支援がアルファ・ロメオから投じられていた。同一のコーチビルダーへの依存を、あえて避けたと考えられる。

アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダー(プロトタイプ/1955年)
アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダー(プロトタイプ/1955年)

2つ目は、大胆な曲線ボディは複雑だったこと。フロント部分の成型はかなり難しいと考えられ、ボンネットはシングルヒンジで剛性不足も懸念された。ボディ面と一体の寝かされたテールライトは、認可が降りる可能性も低かった。

ベルトーネによる2台目のプロトタイプでは、テール周りのデザインが改められている。それでも、キャビンの快適性はピニンファリーナ社に届いていなかった。またアメリカ市場は、脱着式のサイドウインドウではなく、実用的な巻き上げ式を望んでいた。

最終的にホフマンの手を離れたジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダーは、1958年にフロリダ州のセブリング・インターナショナル・レースウェイで目撃されている。それ以降は、ニュージャージー州のアルファ・ロメオ・ディーラーに展示された。

1970年代に入ると、ニューヨークタイムズ紙へスパイダーBATとして販売広告が掲載。1986年1月には、自動車雑誌のオートウイーク誌に記事が載り、3年後のコンクール・デレガンス、ペブルビーチでお披露目されている。

ほぼオリジナル状態で70年間生き抜いた

AUTOCARの姉妹メディア、クラシック&スポーツカーで売りに出されたのは2000年。当時の希望額は17万5000ドルで、オーナーは特別なモデルだと理解していたようだ。

この情報を発見したカーマニアのクリストフ・プンド氏は、ジュリエッタのコレクターとして知られる、とあるスイス人へ連絡。2人はアメリカへ飛び、キース・ゴーリング氏とスーザン・ディクソン氏という、アルファ・ロメオ・マニアから買い取った。

アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダー(プロトタイプ/1955年)
アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダー(プロトタイプ/1955年)

ジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダーは、欧州へ輸送。当初はそのスイス人が所有していたが、最近、クリストフのコレクションへ加わったという。

改めて真っ赤なボディを眺める。ほぼオリジナル状態を保ったまま、70年近く生き抜いてきたことには驚かざるを得ない。リアバンパーは、惜しくも失われているけれど。

もう1つ、燃料の給油口はトライアンフTR3用のキャップへ交換されている。本来は、トランクリッドを開けなければ給油できなかったため、この方が遥かに実用的だ。

カーブを描くフロントガラスには、上部のフレームが備わらない。ボンネットは長く伸びやか。3枚のヴェリア社製メーターにはアルファ・ロメオのロゴがあしらわれ、表示は英語。スピードはマイル表示で、アメリカ前提の設計を窺わせる。

油温と油圧計が備わり、スポーティな志向も物語る。走行距離は、5万7500kmを超えたばかりだ。

内側にストラップの付いたドアは軽く、簡単に閉まる。シートは低く、ペダルへ向けて足を伸ばす。美しいステアリングホイールが、手元に来る。

記事に関わった人々

  • 執筆 / 撮影

    セルジュ・コーディ

    Serge Cordey

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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