消えたブランドの傑作:ボルクヴァルトP100 当時のドイツ製サルーン最速:BMW 502(1)

公開 : 2025.01.25 17:45

1961年に廃業した、ドイツ5番目の自動車メーカーだったボルクヴァルト BMWやメルセデスへ対峙した直6のP100 同時期に売られていたV8の502シリーズ 対象的な2台を英編集部がご紹介

中流向けサルーンを提供したボルクヴァルト

ドイツ北西部、ブレーメンに拠点を置いた自動車メーカー、ボルクヴァルトは1961年に廃業した。その足跡を理解するほど、筆者はBMWが目指す姿を先取りしていたように思えてならない。晩年には、高品質な中流階級向けサルーンを提供していたからだ。

創業者のカール・ボルクヴァルト氏が、優れた直感力を宿していたことは、中型サルーンのイザベラに現れている。実用性と洗練性に長け、当時の1.5Lクラスとして有能な走りを実現していた。充分に運転を楽しめ、大成功といえる結果を残した。

ボルクヴァルトP100(1959〜1961年/欧州仕様)
ボルクヴァルトP100(1959〜1961年/欧州仕様)

一方で発想豊かなカールは、少し業種を拡大し過ぎたといえる。オートマティック・トランスミッションや燃料インジェクションだけでなく、ヘリコプターの製造にも進出。ゴリアテにハンザ、ロイドという小型車ブランドも擁していた。

バブルカーと呼ばれた戦後のマイクロカーから、V型8気筒エンジンの高級車まで手広く提供した「ボルクヴァルト・グループ」だが、経営は好調とはいえなかった。その足を引っ張ったのが、BMWに手を差し伸べていた、投資家のヘルベルト・クヴァント氏だ。

クヴァントは、ボルクヴァルトがBMWの脅威になり得ると推測。カールが銀行融資を得るためにブレーメン州政府へ支援を求めると、妨害に尽力したという。ボルクヴァルトの財務に関する否定的な新聞記事も、彼にとっては強い追い風になった。

BMWやメルセデス・ベンツへ対峙したP100

結果的に、ボルクヴァルトの販売は急落。1961年に、同社は地方銀行の管理下に置かれてしまう。ワンマン経営者として、同社を拡大させたカールは意気消沈。1963年にこの世を去っている。

ブレーメンの工場設備はメキシコへ輸出され、ボルクヴァルト・ブランドは1970年まで続いた。クヴァントが登場する以前には、ドイツで5番目の規模を誇る自動車メーカーにあり、早すぎる終焉といって良かった。

手前からボルクヴァルトP100と、BMW 2600L
手前からボルクヴァルトP100と、BMW 2600L

ボルクヴァルトの賢明な技術者たちは、BMWに活躍の場を求めた。1961年9月に発表された新世代の中型車、BMW「ノイエクラッセ」1500は、イザベラの後継モデルの延長にあったと想像するのは、飛躍的なものではないだろう。

そんなボルクヴァルトの末期に、BMWやメルセデス・ベンツへ対峙していたのが、直列6気筒エンジンを搭載したP100。1959年にドイツ・フランクフルトで発表され、フィンテールを備えたW110型やW112型以上の注目を集めた可能性はある。

特筆すべき技術が、メルセデス・ベンツより先に量産化されたエアサスペンション。当初はオプション設定だったが、1960年式からは標準になっている。

アメリカではキャデラックなどが既に採用していたが、信頼性の低い技術として否定的に見られていた。しかし、ファイアストーン社と共同で開発された同社のエアスプリングは、メルセデス・ベンツが採用したボッシュ社製と同等の耐久性を備えていた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ボルクヴァルトP100 BMW 502の前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事