過小評価される傑作 ベントレーMkVI(1)プロジェクト・フェニックス唯一の現存車両 指標になったパークウォード・ボディ
公開 : 2026.09.20 17:45
戦後初となるベントレーの量産モデル、MkVIがクルーで作られて80年。UK編集部が過小評価される傑作を振り返ります。複数のホイールベースへ対応したシャシーに、視覚的な指標になったボディなどに注目です。
もくじ
ークルー工場でベントレーの生産が始まって80年
ー戦前に打たれていた次の一手
ー複数のホイールベースへ対応したシャシー
ー戦後のモデルの視覚的な指標になったボディ
ー標準ボディが架装された初のベントレー
クルー工場でベントレーの生産が始まって80年
グレートブリテン島中西部、クルーへ構えた工場での生産開始から80年。戦後初となる、量産モデルの登場からも80年。2026年は、ベントレーにとって特別な1年だ。
1946年リリースのMkVIは、それまでロンドン北西部、クリックルウッドを拠点としたブランドにとって重要な転換点となった。世界恐慌の混乱の中、ロールス・ロイスは1931年に存続の危機にあったベントレーを買収。モデルの再編が図られた。

ジャック・ハリソン(Jack Harrison)
ロールス・ロイス・ファントムII コンチネンタルと競合関係にあった、ベントレー 8リッターは終了に。ベンスポートと名付けられた再生計画を経て、高い完成度の3 1/2リッターが1933年に発売され、ブランドは再起の1歩を踏み出す。
このモデルは「サイレント・スポーツカー」と呼ばれ、支持を獲得。4 1/4リッターへ発展していく。ロールス・ロイスが擁した大排気量モデル、ファントムIIやIIIとも、小排気量モデルの20/20や25/30とも、明確に個性は異なった。
戦前に打たれていた次の一手
ところが1940年代を迎える前に、この3シリーズによる展開は限界を迎える。欧州では高速道路の敷設が進み、エンジンやタイヤへの負荷は大幅に高まっていた。BMWやランチアといったブランドは、小型で高品質な新モデルを発表していた。
ロールス・ロイス創業者のヘンリー・ロイス氏は、技術的な遅れを問題視し改革へ動き出すものの、第二次大戦が勃発。1945年5月8日にナチス・ドイツが降伏するまで、市販モデルの開発は凍結される。だがその3日後に、量産の再開計画は発表された。

戦後は、高級品への需要が見込まれながらも、燃料は配給性。鉄やアルミなどの材料は枯渇していた。英国では社会改革や国家再建の流れが加速し、高級車の購入という目立つ行為は控えられるように。コーチビルダーは、軍需で有能な職人を失っていた。
それでも戦前の1937年に、ロールス・ロイスの工場長だったアーネスト・ハイヴス氏は、先手を打っていた。製造費用がかさむV12エンジンをはじめ、設計は複雑で部品は車種間で共有されず、生産は年間1500台程度。収益性の低さが、課題だった。
複数のホイールベースへ対応したシャシー
ハイヴスは、シャシー技術者のロバート・ハーヴェイ・ベイリー氏や開発部門のウィリアム・アーサー・ロボサム氏とともに、合理化計画を立案。複数のホイールベースへ対応するシャシーと、4・6・8気筒の3種類のBシリーズ・エンジンの開発が決まる。
エンジンとシャシーの組合せで、ロールス・ロイスにもベントレーにも仕上げることが可能だった。シルバーゴーストへの1本化を図った1906年以来の、大転換といえた。

この計画は「プロジェクト・フェニックス」と命名。新たなモデル展開を実証するべく、6気筒モデル3台と8気筒モデル1台の、試作車が製作される。今回ご登場願ったグリーンのベントレーは、その6気筒の1台。4台の中で、唯一の現存車両となる。
試作シャシーはロンドン北部のコーチビルダー、パークウォード社へ輸送。4ドアのサルーンボディが架装され、1939年5月に試運転が始まっている。この車両は、後にMkVIと名付けられるベントレーの、コンセプトカーだと考えていい。
























































































































































