メルセデス300SLR 圧倒的なパワー、栄光に彩られたストーリーを紐解く

公開 : 2017.04.29 00:00  更新 : 2017.05.13 12:48

いよいよ、300SLRに乗る

(プレイステーションで数えきれないほどのセッションをこなした上に)北コースを20周ほど周回し終えた頃、筆者はプレッシャーのかかるテスト走行にもようやく慣れ、この限りなく貴重な300SLRを加速させる自信がついた。リアにスイング・アクスル式サスペンション(幸いなことにロー・ピボット・タイプ)を備えながらも、300SLRの一見クセのない挙動が当初の不安を払拭する助けになった。ハンドリングはとても快適な印象だ。タイトなコーナーに進入する際は、わずかにアンダーステアになるものの、トラクションの良さと直進性のおかげでコーナーを加速して抜ける時に簡単に修正できる。300SLRなら、測ったように正確なライン取りが可能だ。当時の英雄たちがおそろしいドリフトに身を委ねている写真など存在しない。ステアリングも素晴らしく、低速域では軽く感じる。速度が上がるほど、ダイレクトで精密な挙動がドライバーに語りかけてくる。

プレナム室に吸気する大口径インテーク。


この妥協のない性能、そしてレスポンスに優れた性質、これに計算されたドライビングが加われば、モスとジェンクスがミッレ・ミリアにおいて10時間7分48秒という驚異的なタイムでブレシアからローマまで往復したことも驚くには当たらない。北コース最悪のバンプを越える時でさえ、わりと素直に反応するトーション・バー・スプリングとテレスコピック・ダンパーがドライバーを保護してくれる。カルッセル(特殊な舗装のバンクが付いた左ヘアピン。クルマをバンクに引っ掛ける感じで曲がる)を曲がる時は、コンクリート・バンクの微細な凹凸のすべてが伝わり、極めてタイトなコーナーをバックエンドが抜けて行く。その際も、GT40など、最高級の耐久レーシング・マシンと同様、タフなSLRは常にドライバーの頼もしい味方だ。筆者は回転数の上限を6000rpmに設定していたが、それでも直線区間ならトップギアでおよそ208km/hだ。スタート・ラインまで2キロという近さのおかげで、この限りなく貴重なマシンを安心して踏むことができる。高速域では、厚手の風防がドライバーを保護する。300SLRは、見事な高速安定性を示し、ノーズが浮き上がる兆しさえない。55年シーズンの輝かしい結果から見て、300SLRは、このシーズン最速のクルマだったと見られるものの、ル・マン24時間レースでは、スタートで、フェラーリ121LMに乗ったエウジェニオ・カステロッティに後れを取った。

クラッチと同様、ブレーキもかなりの力を込めて踏む必要があり、最初はあまりレスポンスが良くない。SLRの最終仕様では、巨大なドラム・ブレーキをアウトボードにしたので、インボード式ドラム・ブレーキがボディ内にあったときのように、粉塵がフィルタを通り抜けてコクピットに侵入し、ドライバーの顔が真黒になるということだけはなくなった。メルセデス・チームは、ドラムを冷却するためにありとあらゆる方法を試みた。極限まで幅の広いドラムに巨大な放熱フィンをつけ、一部のレースについては、ブレーキがロックし始めると、ドライバーがコクピットからブレーキ内部にオイルを注入する仕組みも採用した。重いペダルに慣れるにつれ、微妙なレスポンスが感じ取れるようになり、急ブレーキをかけてもロックしなくなる。設計責任者であるルドルフ・ウーレンハウトは、ドラム・ブレーキ特有の問題点を解決し、ル・マンにおいてジャガーの先進的だが課題の多いディスク・ブレーキに対抗するために油圧作動するエア・ブレーキを開発した。筆者が最近モスから聞いた話では、高速でコーナーに接近する際、このエア・ブレーキを使えば、かなりのダウンフォースが得られたという。ジャガーD-タイプは、アイフェル・レースで、2台ともブレーキングに悩まされ、同じコーナーでペダルを床につくまで踏み抜いた挙げ句にコース・アウトした。

300SLRは、直線で最速のクルマではなかったとしても、そのバランスの取れたハンドリングや先進的な機構に並ぶクルマはなかった。メジャーな国際的タイトルであるル・マンにおいてフェラーリ陣営からヨーロッパでのデビューを飾ったアメリカ人名ドライバー、ジョン・フィッチは、当時のメルセデス・チームの印象を次のように生き生きと語った。「300SLRには、ある種畏敬の念を感じていました。300SLRに乗ったモスが後方からどんどん追い上げ、ついに追い抜かれた時のことが今も記憶に残っています」、こう彼は語った。「4.4ℓエンジンのフェラーリは、直線では300SLRに勝るため、何周かは後を追いましたが、300SLRの素晴らしく正確な挙動に特に感銘を受けました。300SLRは、レーシング・マシンには珍しいオールマイティなクルマではないかと感じたものです」。

ル・マンの悲劇

完成したSLR9台(10台目は完成していない)のうち8台が過酷なレースを生き伸びた。6号車は、55年のル・マンにおけるピエール・ルヴェーの悲劇的な事故で全損した。この事故は、モータースポーツ史上最悪の惨事として現在も記憶されている。アイフェル・レースでの勝利は、その13日後にフランスで行われたル・マンの大惨事と鮮やかなコントラストをなしている。陰惨なクラッシュ事故では、フランス人ドライバー、ルヴェーのクルマがランス・マックリンのオースティン・ヒーリー100Sに追突して宙を舞い、観客席のそばに落下して爆発したため、部品が観客席に降り注ぎ、83名の命を奪った。惨劇が起きたのは午後6時28分だが、モス、そして同じチームのファンジオが暗闇の中、ライバル・チームよりも優に2周先行していたこともあって、本社がレースから撤退するようノイバウアー監督に指示した頃には午前2時になっていた。

ミッレ・ミリアではトランクにスペア・タイヤを2本積んだ。


クラッシュ事故に直接的責任がないことは明らかであったものの、300SLRの珍しいマグネシウム合金や危険かつ違法な燃料を使用していたことが爆発の規模を大きくしたのではないかと疑う人々もおり、メルセデス・チームは激しい非難にさらされた。ノイバウアー監督は、このような嫌疑に対し、適法な燃料を使っていた明白な証拠、マグネシウムが衝撃を与えても簡単には爆発しないこと、SLRがレースの他のクルマよりも高い強度と剛性を備えていたことなどを示し、一つずつ反論していった。合理的に考えれば、サーキットの安全対策の不備、ジャガーのリーダーであったマイク・ホーソーンの無謀な運転、そしてルヴェーがSLRに慣れていなかったことの方が要因としては重要だった。ル・マンの事故に先立ち、メルセデス陣営は、既に年末をもってレース活動から撤退することを発表しており、この惨事は、経営陣の決意をいよいよ固めさせる結果になった。

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