【迷える名車】日産スカイラインの人気おちた背景 勝利の方程式捨てたV35の功罪

公開 : 2021.07.03 05:45  更新 : 2021.10.11 10:54

GT-Rの栄光 そして迎えた日産の危機

そして、1989年には第8世代となるR32型スカイラインが登場する。

R32は、2Lエンジンを搭載したエントリーモデルを用意しつつ、一方で高性能版のGT-Rを復活。

日産スカイラインGT-R(R34)
日産スカイラインGT-R(R34)    日産

つまり、「サーキット由来の高性能」&「身近な存在」という60年代から続く、成功の方程式を守ったモデルであった。

当時はバルブ経済が過熱していた時代でもあり、ホンダからNSXトヨタからスープラも登場するというイケイケの時代だ。R32スカイラインは、シニアだけでなく、若い世代にも大人気となり、商業的にも大ヒットモデルとなる。

しかし、第9世代目のR33をへて、1998年登場の第10世代のR34スカイラインのころになると、日本の状況が大きく変化する。

バブル後の大不況時代、いわゆる「失われた20年」「就職氷河期」と呼ばれる時代だ。

また、日本全体が不況というだけでなく、日産の状況も最悪であった。

R34スカイラインが登場したころの日産は、2兆円もの負債をかかえ倒産寸前だったのだ。

お金のない日産は、スカイラインを抜本的に刷新することができず、10年前に登場したR32型の中身を、そのまま使い続けてR34型としていたのだ。もちろん、R34型のスカイラインの販売は低迷する。

ゴーン日産に救われた? それとも……

そんな日産であったが、2003年にルノーとの資本提携を実施し、カルロス・ゴーン氏が来日。

ゴーン氏による強烈なリストラにより、日産はわずか4年ほどで負債を完済し、復活を遂げることになる。しかし、一方では「スカイラインもリストラされてしまうのでは」という不安も漂っていた。

日産スカイライン(V35)
日産スカイライン(V35)    日産

だが、日産にとってアイコンとなるモデルが必要ということで、ゴーン氏は、「フェアレディZ」「スカイライン」の存続を決定。

2001年にはV35型と呼ばれる、11世代となるスカイラインが発売されている。

しかし、サーキットで活躍するための「GT-R」は、別モデルとして独立。スカイラインは、「サーキットでも活躍できる高性能セダン」ではなく、普通の「スポーティなセダン」という新しい路線を歩むことになったのだ。

リストラを免れた新世代スカイラインであったが、その人気は期待ほど高まることはなかった。

人気低迷の理由は、旧来モデルとの乖離だろう。

とくに直前までのR32からR34時代の「スカイラインらしさ」が、まったくなかったのだ。

アメリカ販売を見込んでいたこともあり、車格をアップ。エンジンは、当時の上級セダンのトレンドとなっていたV6を採用。

排気量は2.5Lと3L、後に3.5Lを用意する。エントリーモデルとしての小排気の2Lエンジンは用意されなかった。

価格も265万円から。R32時代は、200万円以下のモデルを用意していたことを考えると、価格帯も上がってしまったのだ。

プレーンですっきりとしたスタイルは上質さがあるけれど、走りの良さを感じさせるデザインとは別路線だ。

さらには当初は4ドアのセダンのみで、クーペがなかったというのも、スポーティさからイメージを遠ざける理由になった。

つまり、大きくなって、格好悪く、値段もアップしていたのだ。

R32時代にスカイラインを買い支えた若い世代に受け入れられなかったのが販売不振の理由の1つといえるだろう。

記事に関わった人々

  • 上野和秀

    Kazuhide Ueno

    1955年生まれ。気が付けば干支6ラップ目に突入。ネコ・パブリッシングでスクーデリア編集長を務め、のちにカー・マガジン編集委員を担当。現在はフリーランスのモーター・ジャーナリスト/エディター。1950〜60年代のクラシック・フェラーリとアバルトが得意。個人的にもアバルトを常にガレージに収め、現在はフィアット・アバルトOT1300/124で遊んでいる。
  • 鈴木ケンイチ

    Kenichi Suzuki

    1966年生まれ。中学時代は自転車、学生時代はオートバイにのめり込み、アルバイトはバイク便。一般誌/音楽誌でライターになった後も、やはり乗り物好きの本性は変わらず、気づけば自動車関連の仕事が中心に。30代はサーキット走行にのめり込み、ワンメイクレースにも参戦。愛車はマツダ・ロードスター。今の趣味はロードバイクと楽器演奏(ベース)。

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