【迷える名車】日産スカイラインの人気おちた背景 勝利の方程式捨てたV35の功罪

公開 : 2021.07.03 05:45  更新 : 2021.10.11 10:54

数々の伝説を残し人気車となった日産スカイラインもいまや売れず。迷える名車となるまでの歴史を振り返ります。

高級車として産声をあげる

text:Kenichi Suzuki(鈴木ケンイチ)
editor:Taro Ueno(上野太朗)

スカイラインとは、日産で古くから人気となっていたセダンだ。

だが、そのスカイラインのキャラクターは、非常に独特。他に類のないものである。

日産スカイラインGT-R(R32)
日産スカイラインGT-R(R32)    上野和秀

まず、最初のスカイラインは、日産ではなくプリンスという別の自動車メーカーから発売されている。

プリンスは、中島飛行機と立川飛行機にルーツを持つメーカーで、技術者の多くが元航空技術者であったこともあり、高度な技術力を誇っていたのだ。

そのプリンスが世に送り出したスカイラインは、「超」のつくような高性能で高級なセダンであった。

1957年(昭和32年)の初代モデルの価格はスタンダードが93万円、上級のデラックスでは120万円もしており、当時、販売されていたトヨタクラウンよりも高額であったのだ。

ちなみに当時の公務員の大卒初任給9200円であり、新車価格120万円は、初任給の約130倍にもなっていた。

また、プリンスは1962年にはイタリアのカーデザイナーとなるミケロッティがデザインしたクーペ/コンバーチブルのスカイラインスポーツを発表、こちらは、さらに高額で185~195万円。もちろん、当時としては常識外れの超高級車であった。

スカイラインの残した伝説

そんなスカイラインは、1963年に登場した第2世代で価格を60万円として、庶民に手の届くファミリーカーとして再出発する。

その2代目モデルが大事件を起こす。

プリンス・スカイライン
プリンス・スカイライン    日産

1964年に開催された第2回日本グランプリにて、ポルシェ904と戦い、一時とはいえスカイラインがトップを走ったのだ。

ポルシェ904はレース参戦を想定して作られた本格的なレーシングカーだ。1964年のルマン24時間耐久レースでも優勝している。

そんな世界最高峰のマシンに箱型のオーソドックスな4人乗りの国産セダンのスカイラインが互角に戦ったのだ。それは驚くだろう。ここに「スカG(スカイラインGT)伝説」が生まれる。

そして、プリンスは1966年に日産へ併合されるが、スカイラインは継続生産となり、1969年には高性能エンジンを搭載するスカイラインGT-Rが登場する。

このスカイラインGT-Rは国内レースで大活躍し、さらにスカイラインの人気を高めることに成功する。

「サーキットでも活躍できる高性能車を愛車にできる」のが人気の理由だ。

セダンでありながら、レーシングカー並みの性能ということで「羊の皮をかぶった狼」とも呼ばれることもあった。

そうした「サーキット由来のスポーツカーに限りなく近い高性能セダン」というスカイラインのキャラクターは、1960年代から70年代を経て、80年代も続いてゆく。

記事に関わった人々

  • 上野和秀

    Kazuhide Ueno

    1955年生まれ。気が付けば干支6ラップ目に突入。ネコ・パブリッシングでスクーデリア編集長を務め、のちにカー・マガジン編集委員を担当。現在はフリーランスのモーター・ジャーナリスト/エディター。1950〜60年代のクラシック・フェラーリとアバルトが得意。個人的にもアバルトを常にガレージに収め、現在はフィアット・アバルトOT1300/124で遊んでいる。
  • 鈴木ケンイチ

    Kenichi Suzuki

    1966年生まれ。中学時代は自転車、学生時代はオートバイにのめり込み、アルバイトはバイク便。一般誌/音楽誌でライターになった後も、やはり乗り物好きの本性は変わらず、気づけば自動車関連の仕事が中心に。30代はサーキット走行にのめり込み、ワンメイクレースにも参戦。愛車はマツダ・ロードスター。今の趣味はロードバイクと楽器演奏(ベース)。

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