クラシック・ベントレーの異端児 3リッター・スーパースポーツ 時速100マイル保証 後編

公開 : 2022.07.16 07:06

大きなレストアを受けず近年まで生き抜いた、1925年式ベントレー。160km/hの能力を持つ1台を、英国編集部がご紹介します。

オーナーが指定したシャシーやボディ

英国の弁護士でレーシングドライバーだった、ウィリアム・ジェフリー・バーロウ氏も、ベントレー3リッター・スーパースポーツをオーダーした1人。シャシー番号1174の、初代オーナーだ。

彼はベントレー・マニアで、シャシー番号22の3リッターも所有していた。そのクルマに乗り、ブルックランズ・サーキットを154km/hで走行している。

ベントレー・3リッター・スーパースポーツ(1925〜1927年/英国仕様)
ベントレー・3リッター・スーパースポーツ(1925〜1927年/英国仕様)

1892年にグレートブリテン島の中西部、チェシャー州で生まれたバーロウは、第一次世界大戦時に英国陸軍航空隊へ入隊。ロイヤル・エアクラフト・ファクトリーFE2という複葉機で、任務に加わっている。

より速いベントレーを探していた彼は、1925年にグロブナー・ガレージ社を通じて、スーパースポーツを購入したようだ。ボディの製作を請け負ったのは、南部のウィンチェスターという街にあったコーチビルダー、ウィル・ショート社だった。

安くないモデルだったが、スーパースポーツは1925年に11台が売れている。バーロウの注文は9番目だったという。ステアリングコラムは低い位置へ変更され、アクセルペダルは伸ばされた。リアのリーフスプリングは、標準の7枚から8枚へ強化されていた。

彼は、ボディのデザインへ細かく希望を出している。シートは左右で位置が僅かにずらされ、フレアウイングを装備。バッテリーボックスを下に固定できる、高い位置のランニングボードも指定された。テールはカーブを描き、後端へスペアタイヤが積まれた。

維持されてきたオリジナル・エンジン

ボディカラーには、記録がない。フロントガラスが取り外され、ラジエーターだけがメッキされた当時の写真を眺めると、アグレッシブな見た目だったことは間違いない。

TR 829のナンバーを得たスーパースポーツは、バーロウの自宅があった南部のキングスリー・グリーンに保管され、ロンドンの裁判所へ定期的に高速で走ったことだろう。

ベントレー・3リッター・スーパースポーツ(1925〜1927年/英国仕様)
ベントレー・3リッター・スーパースポーツ(1925〜1927年/英国仕様)

スーパースポーツを3年間楽しんだバーロウは、当時27歳だったローランド・スワード氏へ売却。彼は、スーパーマリンス・ピットファイア戦闘機の生産を請け負った工場の創業者だった。

クルマは第二次大戦の戦火を生き延び、1956年にベントレー・ドライバーズ・クラブのメンバーだったジュディ・ジェームズ氏の娘、ジュディ・コーツ氏がオーナーに。その時点での走行距離は6万6000kmほどだったようだ。

1993年までコーツが維持した後は、ベントレー・コレクターのビル・レイク氏が購入。オリジナルのエンジンやシャシーに感動した彼は、以降の約30年間も状態を保った。

2年前のボナムズ・オークションへ出品されると、シャシー番号1174のスーパースポーツは、自身の名を冠したクラシックカー・ディーラーを営むウィリアム・メドカーフ氏が購入。ベントレーの専門家、クレア・ヘイ氏を招聘し、メカニズムの調査が実施された。

そこで確認されたのは、コンポーネントに刻印された番号の多くが、オリジナルと一致すること。「驚くほど保存状態の良い、走行距離の短いスーパースポーツを手にした時は興奮しました」。とメドカーフが話す。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジェームズ・マン

    James Mann

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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