【パリで活躍した日本人自動車画家】追悼 吉田秀樹 アウトガレリア・ルーチェ企画展

公開 : 2020.03.13 06:10

パリで活躍した自動車画家 吉田秀樹氏の軌跡を、名古屋のアウトガレリア・ルーチェが新たな企画展として取り上げました。昨年逝去された吉田氏の作品と趣味の世界が多角的に紹介されます。

もくじ

吉田秀樹が描いたモノとは
1971年 パリへ
ナルディ、ボーグも
クルマと輝いた生涯

吉田秀樹が描いたモノとは

text&photo:Kunio Okada(岡田邦夫)
photo:Makoto Hiroi(廣井 誠)

20世紀の芸術家は、機械そのものに美を見出した。マルセル・デュシャンは「現代では飛行機のプロペラよりも美しい芸術は創造できない」と気がついて、思考で楽しむコンセプチュアル・アートを創始した。ここから現代美術が始まった。

キュービズムの画家アンドレ・ドランが「どんな芸術作品よりも、ブガッティは美しい」と述べると、マン・レイが深く頷いた。機械をテーマにして描いた画家には、イタリア未来派やフランシス・ピカビアがいたが、しかし、彼らによって描かれた機械よりも、設計図面や機械その物の方が純粋で美しいことは明らかだ。

アウトガレリア ルーチェで2回目となる吉田秀樹展は、吉田画伯がこよなく愛したクルマたちと、多数の作品を一度に見ることができるまたとない機会だ。アトリエの中の彼を見たことがある人はいない。何時間も孤独に閉じこもって、絵筆の先に神経を張り詰めていた。
アウトガレリア ルーチェで2回目となる吉田秀樹展は、吉田画伯がこよなく愛したクルマたちと、多数の作品を一度に見ることができるまたとない機会だ。アトリエの中の彼を見たことがある人はいない。何時間も孤独に閉じこもって、絵筆の先に神経を張り詰めていた。

いざ機械を表現しようとしても実物を超える美しさに到達した芸術作品はないのである。また、自動車を被写体として描く画家も少なくないが、たいていは自動車そのものに比べたら、魅力がないものだ。

ところが吉田秀樹の作品は、いささか事情が違って、時に現実の自動車よりも美しく、蠱惑的に見える。何かこの世のものではないかのような、際立った印象さえ受ける。なぜだろう。

それは、自動車そのものを描こうとしていないからではないだろうか。実際に、彼が描くのはモノではない。彼の絵筆が露わにするのは、3次元の立体の平面的表現ではなく、まったく厚みのない表面に漂う光そのものである。

うつろいゆく光の、その、たまゆらを描いている。それは静謐で、崇高ですらある。だから、彼の作品はリアリズムでないことは、言うまでもない。現実のモノであることを超えて、永遠のイデアとして定着されている。

1971年 パリへ

吉田秀樹は、1949(昭和24)年11月22日に、京都の洋装の染色図案家の家に生まれ、小学生の頃には、家業の関係で欧米から送られてくるモード雑誌を開いては、そこに写っている美しいモデルたちの背景になっている自動車に憧れた。

自動車デザイナーになりたいと思っていたが、家業を継ぐために藤川服飾学院(現・京都造形大学)で、テキスタイルの勉強をした。もちろん、クルマに夢中だったから、在学中から姉のファミリア・スポーツを乗り回し、やがて自分用にホンダS800も買ってもらった。

まだ学生の頃にSを手に入れると、自分でコツコツとFRPを使ってハードトップを作成したりした。S用のスペシャル・パーツを吟味して、足回りなどの改造も自ら施した。
まだ学生の頃にSを手に入れると、自分でコツコツとFRPを使ってハードトップを作成したりした。S用のスペシャル・パーツを吟味して、足回りなどの改造も自ら施した。

1971年に憧れのパリ留学を果たした。名門エコーレ・ド・モード“ESMOD”に入学し、卒業後はパリやミラノのデザイン会社でテキスタイル・デザイナーとして働いた。高田賢三の仕事を助けたこともあった。1972年には、初めてル・マン24時間レースも見に行った。

子供の頃の自動車デザイナーになる夢は捨てていたが、憧れの自動車の絵は描き続けていた。それを或るブティックのディスプレイとして飾ったら、すぐに買い手が現れたのだった。

ちょうどその頃、マーク・ニコロジさんが、レトロモビルというクラシックカーのイベントを始めた。吉田さんは第3回目の1978年からレトロモビルでの展示を始めたが、著名な愛好家たちが吉田さんの作品に注目して、作品を購入するではないか。

パリという芸術の本場だからこそ、ちゃんとコニサー(目利き)たちに評価された。

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