【15台で始まったDBシリーズ】アストン マーティン2リッター・スポーツ 前編

公開 : 2020.04.05 16:50  更新 : 2020.12.08 10:55

今に通じるアストン マーティンの祖先といえる、わずか15台が作られた2リッター・スポーツ、通称「DB1」。現存するのは9台のみです。父の代から受け継いだ貴重な1台が、今もひっそりと英国での余生を楽しんでいます。

もくじ

夢を描く自由を思い出させたDB1
ブラウンが救ったアストン マーティン
戦時中に開発が始まった4気筒エンジン
1台は日本にも輸出されていた
毎月フェルサムで受けていた定期点検

夢を描く自由を思い出させたDB1

text:Martin Buckley(マーティン・バックリー)
photo:James Mann(ジェームズ・マン)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
国民は怯え、疲弊した戦中。物価は上昇し、経済的なダメージも相当なものだった。しかし、抑圧を受けながらも研ぎ澄まされた創造性が、平和の訪れとともに大きく開花した。

第2次大戦後、多用な発展を遂げた英国の自動車産業。限られた資源や人材、エネルギーを考えれば、その事実はとても印象深い。時を経るごとに、実感させられる。

アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)
アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)

1948年の英国国際モーターショーは、アールズコートに存在していた展示センターで開催された。華々しく出展されたジャガーXK120は、英国人へ夢を描く自由を思い出させた。

一方でXK120以外にも、多くの人の記憶には残らなかったとしても、価値あるモデルが並んでいた。数少ない裕福な人が手にすることができる、幻想的なマシンが含まれていた。アストン マーティン2リッター・スポーツ、通称DB1だ。

今日では、アストン マーティン好きでも話題に登ることは少ない。優れた高級スポーツカーを生み出したい、という強い衝動で誕生した、初めの1台だといえる。配給食材の一覧に目を通し、粉末卵でしのいでいた人々へ、戦前に感じていた喜びと興奮を再び与えたのだ。

アストン マーティンが戦争を生き抜いたという事実は、モーターショーの来場者を驚かせた。1920年代は幾度かの経営危機に襲われ、問題を抱えていたからだ。

2リッター・スポーツが作られたのは15台のみ。1950年5月に誕生したモデルがDB2を名乗ったことから、その後にDB1と呼ばれるようになった。

ブラウンが救ったアストン マーティン

クラシックなフェンダーを備えた、1948年のアストン マーティン2リッター・スポーツは、1930年代風。小さく背が低いボディのデザインは、優雅なラゴンダ社のモデルを手掛けていたフランク・フィーリーによる。

2リッター・スポーツの見た目はハンサム。全幅いっぱいのアルミニウム製ボディには、大きなフロントヒンジのドアを備える。流れるようなテールには、充分な大きさのトランクリッドが用意された。

アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)
アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)

バッテリーとスペアタイヤはフェンダー内に収納。縦に長いが、底辺が左右に広がるフロントグリルは、その後のアストン マーティンの顔の手がかりとなった。戦前の人は、ベンチシートに不満は抱かなかったのだろう。

1948年の価格は、3000ポンド(43万円)以上。インフレ調整前なら、11万ポンド(1573万円)に相当していた。デビッド・ブラウン時代のアストン・マーチンとして初めてのモデルでもあり、4気筒エンジンを搭載した最後のモデルでもある。

最高出力91psで、最高速度は149km/h。直列4気筒エンジンは、フェルサム工場時代の名高き伝統だった。

大戦後、トラクターの生産で財を成したデビッド・ブラウンは、アストン マーティンへ興味を示す。タイムズ紙に掲載された記事へ応えるように、1947年にアストン マーティンを傘下に収め、続いてラゴンダ社も5万2000ポンド(743万円)で手中にした。

この買収にはラゴンダ社のステーンズ工場が含まれていなかったが、英国でも権威ある2つの自動車ブランドを買い取るのに、7万2500ポンド(1036万円)しか必要としなかったことには驚く。両社ともに、ブラウンの資金がなければ姿を消していただろう。

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