【15台で始まったDBシリーズ】アストン マーティン2リッター・スポーツ 後編

公開 : 2020.04.05 20:50  更新 : 2020.12.08 10:55

今に通じるアストン マーティンの祖先といえる、わずか15台が作られた2リッター・スポーツ、通称「DB1」。現存するのは9台のみです。父の代から受け継いだ貴重な1台が、今もひっそりと英国での余生を楽しんでいます。

もくじ

父が購入したアストン マーティンDB1
レストアを引き継いだ息子
運転には遥かに高い集中力が必要
ブランドとしての第一章を飾った
アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」のスペック

父が購入したアストン マーティンDB1

text:Martin Buckley(マーティン・バックリー)
photo:James Mann(ジェームズ・マン)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
ゴールディング博士の子どもが運転できる年齢になると、アストン マーティンDB1をドライブした。だが、単に古いクルマだとみなされ、家族で引き継ぎたいとは考えなかったようだ。

しばらくしてゴールディング婦人は、新しいフェラーリを購入。遂にサウスワードの父へ電話がかかってきた。「彼女は5ポンド(700円)を申し出たそうです。ですが、そんなに安くは買えないと話し、70ポンド(1万円)を支払いました」

アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)
アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)

ようやく夢のクルマを手にした、サウスワードの父。オーナーとなった初日からドラマがあった。

博士の家から帰る途中、ガソリンスタンドに寄ると、1000ポンド(14万円)で売って欲しいと声をかけられた。だが、サウスワードの父は断った。ギルフォードの自宅へ向かう途中、国道A30号線ではトラックにぶつけられ、リアスパッツをなくした。

彼の両親たちは、大きな利益も出しえた取引を断ったことに対して、さほど感心も持たなかったらしい。唯一、現オーナーで息子のアランは、OPD 51のDB1が家族に加わったことに目を輝かせた。

一番古い思い出は、妹と一緒に小さなリアシートに座って、アストン マーティンのクラブイベントに向かったこと。父は10年間ほど、DB1を日常的に走らせた。防水性も信頼性も高くはなく、目的地へ無事に往復できたのは50%くらいの確率だった。

1980年代のある日、丘を下っている途中、フロントタイヤの向きがおかしくなった。本格的なレストアの必要な時期を、教えてくれていたのだろう。

アストン マーティンDB1は、自宅のガレージでボディーとシャシーが分離された。サウスワードも、ドライバーを持って手伝ったことをうっすら覚えているという。

レストアを引き継いだ息子

しばらく放置状態になったが、1983年にシャシーはブラスト加工され、亜鉛コーティングが施された。同時に、ボディシェルは塗装のために外部業者へ送られた。ところが、塗装業者はそのクルマをワークショップの隅に放置してしまう。

5年間置かれていたが、ボディにはホコリが溜まり、凹みが増えていた。新しい塗装が吹かれないまま。

アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)
アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)

その頃、サウスワードの父はシトロエンSMへ気を奪われつつ、アストン マーティンのフロントガラス周辺のウッドを作り直した。エンジンのリビルトも仕上げていた。

時は過ぎ、1990年代末になると、DB1を仕上げられる可能性が低くなった。父の熱意は消え、ガレージにはシャシーが放置され、多くの部品が箱詰めにになって積まれていたという。

現オーナーのサウスワード本人は、IT系企業のマネージャーとなり、父のアストン マーティンを受け継ぐ決意をする。彼はBD1を手放すように説得し、時間と資金が許す限り、専門家の助けを借りてクルマを元通りにしていった。

そこで必要となった金額は、通常想像できる数字ではない。相当なものだ。

レストアの中でサウスワードは特に、ジェネラル・オートモービル・サービス社の専門家を高く評価している。彼の父が中断したクルマを復元し、走れる状態まで仕上げてくれた。

博物館を有するアストンマーチン・ヘリテージ・トラストのティム・コッティングハムにも、多くの支援を受けた「今の状態に仕上げるまで、15年から20年くらいは掛かっています。お金より、時間の方が問題でした」 と振り返るサウスワード。

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