【1年違いのラリーチャンプ】タルボ・サンビーム・ロータスとアウディ・クワトロ 後編

公開 : 2021.09.18 17:45  更新 : 2022.11.01 08:53

後輪駆動より30分早くフィニッシュ

とはいえ、5気筒ターボエンジンが縦置きされていることを考えれば、偉業ともいえる。フロントタイヤに、60%の荷重が掛かる。

1983年の世界ラリー選手権チャンピオン、ハンヌ・ミッコラはラリーカーの開発に関わった。1979年にクワトロへ初試乗した感想を、次のように残している。「プロトタイプは、ネガティブな印象でした」

アウディUrクワトロ(1980〜1991年/英国仕様)
アウディUrクワトロ(1980〜1991年/英国仕様)

「クワトロはエスコートより大きく、エンジンは4000rpm以下で活気がなく、酷いものでした。コーナーを正確にターンするようになるまで、半年はかかっています」

「フロントにLSDを組むと、ナーバス過ぎました。そこでファーガソン社のオープンデフをトライ。これは滑らかで良く機能しました。そこからは急展開。開発に関わったピエヒは、すぐにアウディ・スポーツから回答が得られると自信を持っていました」

クワトロがラリーシーンを一変させる予兆は、ミッコラが1980年のポルトガル・ラリーにゲスト参戦した時。後輪駆動のマシンに対し、30分も早くフィニッシュしたのだ。

クワトロのチームは、ラリーの専門家ではなくアウディの従業員等で構成され、1981年はトラブルが続出。機械的な不具合も重なった。だが1982年にはマニュファクチャラーズ・タイトルを獲得。1984年にも掴んでいる。

その過程で、ラリーカーはロング・ホイールベースのグループ4マシンから、ショート・ホイールベースのグループBマシンへ進化。ワイルドなフロントスカートとリアウイングを身につけた、モンスターになった。

後輪駆動マシンを葬り去った四輪駆動

公道用のアウディUrクワトロも進化を重ね、後期型では1981年式よりシャープな体験を楽しめるようになっていた。1988年式のステアリングはより正確で、機敏な操縦性を得ていたと記憶している。

エンジンも途中で排気量が増やされ、2226ccに。小径のターボが組まれ、ブースト圧の立ち上がりも速くなっていた。

ブラックとシルバーのタルボ・サンビーム・ロータスと、ダークブルーのアウディUrクワトロ
ブラックとシルバーのタルボ・サンビーム・ロータスと、ダークブルーのアウディUrクワトロ

四輪駆動システムは、マニュアルで操作するセンターデフ・ロックに変わり、トルセン式のデフを獲得。75%のトルクをリアタイヤへ分配することも可能としていた。

筆者は冬のバイエルン地方で、後期型のUrクワトロを2日間運転した経験がある。日常的に乗れるクラシックとして、究極の1台だと感じたのを覚えている。

グリップ力に長け、動的性能も不足ない。見た目も特徴的でサウンドも素晴らしかった。実用性も高く、現代的な装備も付く。1989年から生産終了まで搭載された、20バルブ・ユニットなら完璧だ。

アウディUrクワトロは改良を続けながら、1991年まで製造が続いた。約1万1500台を世界中で販売している。

四輪駆動で一躍ラリー界のスターとなったアウディだが、1986年のグループBの終焉とともにクワトロの活動も終了。続いて華形となったグループAでは、ランチア・デルタ・インテグラーレやトヨタ・セリカGT-FOURなどが台頭した。

フォード・エスコートRS コスワースも含めて、四輪駆動とターボチャージャーの時代の始まりだった。サンビーム・ロータスを含む後輪駆動マシンを、アウディ・クワトロが葬り去ったのが分水嶺。まさに節目の2台といえるだろう。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ベン・バリー

    Ben Barry

    英国編集部ライター
  • 撮影

    オルガン・コーダル

    Olgun Kordal

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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