【1959年式は残存約250台】モーリス・ミニ・マイナー 評論家が買い取った広報車 前編

公開 : 2021.10.16 07:05  更新 : 2021.10.18 07:53

自らのお金で広報用ミニを買い取り

当時49歳で、豊かな口ひげと鹿撃ち帽がトレードマークだったボルスター。毎週のように25万冊もの自動車雑誌が売れていた時代にあって、多くのクルマ好きが知る、影響力を持つ自動車ライターの1人だった。

1910年に生まれたボルスターは、学生時代に家族から運転を学んだ。1949年の英国グランプリでの事故でレースキャリアを終えると、1950年からは自動車メディアに転向。週間オートスポーツ誌の創刊に携わった。

BMC モーリス・ミニ・マイナー(1959年/英国仕様)
BMC モーリス・ミニ・マイナー(1959年/英国仕様)

自動車関連の執筆へ意欲的に取り組み、生涯で6冊の本を出版。BBCではレース放送の解説もしている。1984年にこの世を去る直前には、AUTOCAR系列の紙面にも文章を寄せていただいた。

ボルスターは、ヒルクライム・レースを通じてイシゴニスと友好的な関係を築いていた。そんな彼は貸し出された981 GFCのミニを非常に気に入り、1960年5月に1万6000kmを走り込んだ試乗レポートを執筆。その前に、自らのお金でミニを買い取っている。

ロールス・ロイス・シルヴァーゴーストや、1903年式のパナール・エ・ルヴァッソールといった彼のコレクションにモーリス・ミニ・マイナーは加わり、日常的な足として活躍した。

ボルスターは1959年のパリ自動車ショーへも、ミニで移動。その場所でイシゴニスと会い、長距離旅行での好感触を直接伝えたという。

1960年のグッドウッド・サーキットで開かれたメディア対抗ミニ・レースで、ボルスターは4位に入賞している。ただし、981 GFCが参戦したかどうかは不明だ。

インフルエンサーのような存在

市民権を得たミニの影響で、急速にカスタム市場も拡大。ボルスターも長距走行に適した仕様にするべく、アフターマーケット・パーツで981 GFCのミニを自らパーソナライズした。

インテリア・サイレントと呼ばれた防音キットは、小さなボディでの疲労感を大きく減らした。エグゾーストが発する熱を荷室で拾い、リアガラスを温めて曇りを防ぐ、スミス社製のリアスクリーン・ヒーター&デミスターキットも取り付けている。

BMC モーリス・ミニ・マイナー(1959年/英国仕様)
BMC モーリス・ミニ・マイナー(1959年/英国仕様)

ダッシュボードの下側から伸びるマジックワンドと呼ばれたシフトレバーを置き換える、メジャーチェンジと呼ばれるリモートギア・リンクも装備させた。ボルスターは1961年3月に、そのアップグレードに関する記事を書いている。

今でいう、インフルエンサーのような存在だった。サンプルとして、無償で部品を提供してもらった初めての例だろう。

現在でも装備されている、ウォルソール社製のウッド・ステアリングホイールも、彼が当時交換したもの。ステアリングコラムから伸びるウインカーレーバーには、夜の電飾の眩しさを防ぐために付け加えたシールドが、今も残っている。

ボルスターは、クリッパー・ブルーのミニの重要性を理解していた。モノを大切に扱うという、消費世代とは違う時代の英国人として、大切にクルマを扱った。保管されていた期間が長かったことも重なり、今でも良い状態が保たれている。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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