1台限りのヴィニャーレ・ボディ アストンマーティンDB2/4 ベルギー国王の特注車 前編

公開 : 2022.05.28 07:05

ベルギー国王がオーダーしたアストンマーティンDB2/4。スペシャル・ボディの貴重な1台を英国編集部がご紹介します。

イタリアン・コーチビルダーに魅せられた王族

ヴィニャーレ・ボディのアストン マーティンDB2/4は、1台だけが作られた。魅了されるようなゴージャスな佇まいとは裏腹に、少し残念な過去を秘めたクラシックだ。

1950年代半ば、ベルギーの若きボードゥアン国王によってオーダーされたものの、1960年代初頭には価値が危ぶまれるほどの状態に追い込まれた。シャシー番号は、LML/802だ。

アストン マーティンDB2/4 ヴィニャーレ・ボディ(1955年/欧州仕様)
アストン マーティンDB2/4 ヴィニャーレ・ボディ(1955年/欧州仕様)

いかにも1950年代らしい、丸みを帯びたラインで構成されたフォルムはとても優雅。アメリカで花開いていた、大胆なフィンの付いたジェット戦闘機風デザインとは対極的な美しさがある。ただし、流行の変化で当時でも若干クラシカルに映っていたことは事実だ。

ボディなどの特装を手掛けるカロッツエリア、ヴィニャーレ社をトリノで創業したアルフレド・ヴィニャーレ氏は、専属デザイナーとしてジョヴァンニ・ミケロッティ氏を雇い入れた。彼は、独特の趣きを持つスタイリングを得意としていた。

それが、1950年代後半にフェラーリとの関係性を失った理由にもなった。エンツォ・フェラーリ氏は、ピニンファリーナ社へ仕事を依頼するようになった。

その頃の王族は、イタリアン・コーチビルダーが作り出す美しいボディに魅せられていた。なかでもベルギー国王のレオポルド3世は、強く心を奪われていた。リリアン女王とともに、特注フェラーリを1953年からの15年間に合計5台もオーダーしている。

彼の母は、パッカード・コンバーチブルを自ら運転中に事故死している。他方でリリアンもまた、クルマをこよなく好んだ。

世界最速量産モデルの1台だったDB2/4

第二次大戦が開けた1945年以降、レオポルド3世の支持率は低迷。市民の声を受けるように、1951年に息子のボードゥアンへ王位を継承した。公の国王という立場を退いた父のレオポルドは、イタリアン・スポーツカーに浸れると考えたのかもしれない。

特注の5台で最も有名なモデルは、ピニンファリーナが手掛けた公道用のフェラーリ375 プラス・カブリオレだろう。だが、最も美しいのは1968年の330 GTCだと思う。妻、リリアンのためにオーダーされたフェラーリだ。

アストン マーティンDB2/4 ヴィニャーレ・ボディ(1955年/欧州仕様)
アストン マーティンDB2/4 ヴィニャーレ・ボディ(1955年/欧州仕様)

高身長でメガネがトレードマークだった息子のボードゥアン国王も、父の影響を受けクルマ好きだった。タイプ52 ベイビーと呼ばれる、子ども用ブガッティにまたがる幼い頃の写真も残っている。

ポルシェ550や、多彩なマセラティをコレクションしていた。メルセデス・ベンツ600プルマンだけでなく、リンカーンやキャデラックなども複数台所有していた。アメリカ車に対する関心も強かった。

それでも、自らの個性を主張する特注モデルとして、ベースに選んだのはアストン マーティンだった。理由は定かではない。モータースポーツでの活躍や、DB2/4が世界最速の量産モデルの1台だと認知されていたことを考えれば、充分に納得はできるが。

国王の義理の母がオーダーしたフェラーリ250 GTクーペは、ヴィニャーレ社がボディを仕上げていた。1950年代に作られた、貴重なミケロッティ・ボディのフェラーリだ。その流れで、トリノのカロッツエリアが選ばれたのだろう。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ウィル・ウイリアムズ

    Will Williams

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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