コルベット C1の翌年に生まれた異端車 カイザー・ダーリン 161(1) フェンダーへ滑り込むドアは唯一?

公開 : 2024.06.08 17:45

カイザー婦人が気に入った新プロジェクト

それ以前の1950年に、カイザーは小さな2シーター・サルーンのヘンリーJをリリース。通信販売を手掛けるシアーズのカタログには、ベストや時計などと並んで、安価なモデルとして掲載されていた。

仕上がりは悪くなかったものの、同社はアメリカ人の嗜好を正しく理解していなかったようだ。ガソリンが安く手に入り、需要は大きなモデルへ集まっていた。

カイザー・ダーリン 161(1954年/北米仕様)
カイザー・ダーリン 161(1954年/北米仕様)

サスペンションは、フロントがコイルスプリングにウイッシュボーンと先進的。リアはリジッドアクスルだが、ドラムブレーキは同時期のシステムとしては良く効いた。

ヘンリーJの4気筒エンジンは、スポーツカーにも必要なパワーを生み出せると考えられた。ただし、量産仕様のダーリン 161には、2.6L直列6気筒が載っている。もとは、ウイリス・エアロというサルーン向けに、コンチネンタル社が製造していたユニットだ。

カイザーのデザイン・コンサルタントを務めていたハワードは、新しいロードスターの可能性を提案。ヘンリーJのシャシーに、工業用クレイで斬新なスタイリングのボディを削り出した。

ボートを手掛けるグラスパー社によって、1952年に走行可能な試作車が完成。カイザー・モータースの代表、ヘンリー・カイザー氏へ披露すると、婦人が気に入ったらしい。本人は乗り気ではなかったというが、プロジェクトは前へ進むことになった。

「アメリカ最新で最高級のスポーツカー」

結果として、この決断は大後悔を招く。ダーリン 161で生まれた損失は、1000万ドル以上だったと考えられている。

ヘンリーは、住宅建設や造船業で財を成した大富豪だった。第二次大戦後、不要になった戦闘機工場を利用し、政府の融資を受け、急成長する自動車業界へ進出。フォード、GM、クライスラーという3大自動車メーカーを凌駕できるだろうと、空想していた。

カイザー・ダーリン 161(1954年/北米仕様)
カイザー・ダーリン 161(1954年/北米仕様)

大きく華やかな、フルサイズサルーンに対する市場の嗜好を過小評価していた。次々にリフレッシュされるスタイリングも、甘く見ていた。

思うように売れないヘンリーJや、大型サルーンのカイザー・マンハッタンを加勢する手段として、ダーリンへ期待していたのかもしれない。6気筒エンジンでスタートしたコルベット C1のように、ディーラーへ足を運ぶ人を増やす可能性はあった。

「アメリカ最新で最高級のスポーツカー」というキャッチコピーで発売されたダーリン 161は、1954年1月に納車がスタート。ところが、ミシガン州に準備した工場は、前年の吹雪の影響を受けていた。

ヘンリーは、その工場の契約満了が、儲からないプロジェクトの引き際だと判断。1954年8月に、ダーリン 161の生産は終了する。残っていた、約50台ぶんの未完成ボディは売却された。

それを購入したハワードは、エンジンにスーパーチャージャーを載せ、自身のロサンゼルスのショールームで販売。この内の6台には、キャデラックのV8エンジンが積まれている。車重997kgと軽量なダーリン 161を、225km/hまで加速させたという。

この続きは、カイザー・ダーリン 161(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

カイザー・ダーリン 161の前後関係

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