【フォルクスワーゲンに何が起きたのか?】#2 コースの種類も数もケタ違い!ドイツのプルービンググラウンドに潜入

公開 : 2025.05.08 11:45

ここ最近、特に業界内のフォルクスワーゲンに対する評価が高まっています。正確には、評価が戻ってきた印象です。果たしてここ数年、フォルクスワーゲンに何が起きたのでしょうか? 本国のテストコースに招待を受け、その現状を見てきた大谷達也による全3回となる長文レポート、その第2弾です。

ついにプルービンググラウンドへ

関係者の努力によりようやく実現したフォルクスワーゲンのプルービンググラウンド(テストコース)訪問では、彼らが『骨太なクルマ作り』に打ち込む理由が理解できたような気がした。

エーラ=レッシエン(Ehra-Lessien)と呼ばれるプルービンググラウンドは、フォルクスワーゲン本社が建つウォルフスブルグからクルマで30分ほどの距離にある。

エーラ=レッシエン(Ehra-Lessien)と呼ばれるフォルクスワーゲンのプルービンググラウンド。
エーラ=レッシエン(Ehra-Lessien)と呼ばれるフォルクスワーゲンのプルービンググラウンド。    フォルクスワーゲン

ドイツ北部の辺鄙(失礼!)な土地になぜ巨大なプルービンググラウンドを設けたかについては諸説あるが、そのうち、最も重要なのは、なんといっても本社から近いことにあったはず。

一方、ドイツが東西に分かれていた冷戦時代、両国の国境に近いこの地域は航空機の飛行が禁止されており、上空からスパイされる恐れが低かったために選ばれたという噂も真しやかに囁かれている。

ちなみに、エーラ=レッシエンの完成は、1989年にベルリンの壁が崩壊する約20年前の、1968年のことだった。

敷地面積の広さにも圧倒された。正確な数字は不明ながら、地図で確認すると南北に10km、東西に1kmほどの細長い長方形をしていることがわかる。私はこれまでにいくつかの自動車メーカーのプルービンググラウンドを取材したことがあるが、ここまで広い施設は見たことがない。おそらく、私が知っている施設の中で最も広いものの、3〜4倍は優にありそうなスケールである。

それだけに、施設内に用意されたテストコースの種類と大きさにも、目を見張らされるばかりだった。

高速周回路は直線部分だけでも9km

例えば、一般的にもっとも広大なスペースを必要とする高速周回路は、直線部分だけで実に9kmに達する。同行したエンジニアは「ここから見渡すと、地球が丸いことがわかるよ」と私に教えてくれたが、まさにそれくらいの壮大さだった。

ちなみに、フォルクスワーゲン・グループの一員だったブガッティが、シロン・スーパースポーツ300+というモデルで490.484km/hという量産車史上最速記録をマークしたが、その舞台となったのが、このエーラ=レッシエンの高速周回路だった。恐らくは、エーラ=レッシエンでなければ、この記録も打ち立てられなかったことだろう。

ブガッティが、シロン・スーパースポーツ300+で490.484km/hという量産車史上最速記録をマークしたのが、このエーラ=レッシエンの高速周回路だった。
ブガッティが、シロン・スーパースポーツ300+で490.484km/hという量産車史上最速記録をマークしたのが、このエーラ=レッシエンの高速周回路だった。    ブガッティ

こちらも自動車メーカーのプルービンググラウンドとしては定番の乗り心地評価路も、規模、バリエーションの豊富さで群を抜いていた。とりわけ、直径20cmほどの切り株状のものが並んだコースは、路面との段差が10cmに迫ろうかと思えるほど条件が厳しく、しかもそれがランダムに並んでいるというこだわりようだ。

ちなみに、間隔をバラバラにするのは様々な周波数の入力を試すことで、「どこかに潜んでいるかもしれない弱点」まであぶり出そうとした結果と推測される。言い換えれば、実に意地の悪い乗り心地評価路といえる。

記事に関わった人々

  • 執筆 / 撮影

    大谷達也

    Tatsuya Otani

    1961年生まれ。大学で工学を学んだのち、順調に電機メーカーの研究所に勤務するも、明確に説明できない理由により、某月刊自動車雑誌の編集部員へと転身。そこで20年を過ごした後、またもや明確に説明できない理由により退職し、フリーランスとなる。それから早10数年、いまも路頭に迷わずに済んでいるのは、慈悲深い関係者の皆さまの思し召しであると感謝の毎日を過ごしている。
  • 編集

    平井大介

    Daisuke Hirai

    1973年生まれ。1997年にネコ・パブリッシングに新卒で入社し、カー・マガジン、ROSSO、SCUDERIA、ティーポなど、自動車趣味人のための雑誌、ムック編集を長年担当。ROSSOでは約3年、SCUDERIAは約13年編集長を務める。2024年8月1日より移籍し、AUTOCAR JAPANの編集長に就任。左ハンドル+マニュアルのイタリア車しか買ったことのない、偏ったクルマ趣味の持ち主。

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