この1台がフォードを救った 奇跡の『1949年モデル』 開発経緯と歴史

公開 : 2025.07.05 18:25

米国を代表する自動車メーカー、フォード。有名なクルマはたくさんありますが、戦後間もない時期に同社を危機から救った1949年モデルについてはあまり知られていません。今回はその誕生の経緯を紹介します。

知る人ぞ知る米国の名車

1台のクルマの発売が、会社の運命を救うことがある。初代マスタングフォードの代表作として知られているが、1949年モデルのことはあまり知られていない。しかし、実は、1949年モデルこそフォードを救ったスーパースターなのだ。

そこで今回は、1949年モデルが短期間で開発された経緯と理由に焦点を当てながら、フォードにどのような影響を与えたのかを見ていきたい。このモデルがなければ、ブロンコ、マスタング、そしてF-150も存在しなかっただろう。フォードの愛好家なら知っておきたい重要な歴史だ。

フォードを危機から救った1949年モデルについて紹介する。
フォードを危機から救った1949年モデルについて紹介する。

荒波を越えて

フォードの創業者であるヘンリー・フォード氏(写真右)の唯一の息子、エドセル・フォード氏(同左)は1919年に同社の社長に就任した。ただ、当時のことを記す資料の多くは、父親が裏で重要な決定を下していたと指摘している。1940年代初頭、エドセル氏はチーフデザイナーであるE.T.グレゴリー氏(通称:ボブ)と協力して、1943年モデルの開発に取り組んだ。

しかし、このモデルがショールームに並ぶことはなかった。米国が第二次世界大戦に参戦すると、フォードは軍需産業に全力を注ぐようになり、さらに1943年には、エドセル・フォード氏も胃がんにより49歳という若さで亡くなった。父親が再び経営を引き継いだものの、1930年代に度重なる脳卒中を患っていたこともあり、健康状態は悪化していた。

エドセル・フォード氏(左)と、その父ヘンリー・フォード氏(右)
エドセル・フォード氏(左)と、その父ヘンリー・フォード氏(右)

フォードと「神童」たち

エドセル氏の長男であるヘンリー・フォード2世(写真中央)は、1945年9月21日にフォード社の社長に就任した。当時彼は28歳で、自分には会社を再建するための経験が不足していることを自覚していた。彼はまずフォードの構造改革に着手し、ゼネラルモーターズ(GM)から数名の幹部(アーネスト・ブリーチ氏を含む)を引き抜いた。

また、第二次世界大戦の退役軍人で、陸軍航空隊の統計管理部門に所属していた「ウィズ・キッズ(神童)」と呼ばれる人材も採用した。米国を勝利に導いた経験を活かすことができれば、民生品生産に向けて転換を進める中で健全性を維持できるかもしれないと考えたからだ。

従業員と談笑するヘンリー・フォード2世(1946年)
従業員と談笑するヘンリー・フォード2世(1946年)

戦争から平和へ

フォードは、他の競合他社同様、平和が戻ると戦前のモデルを改良して発売することになった。しかし、1943年に発売予定だったモデルをショールームに並べるには遅すぎたため、新型車の開発プロジェクトに着手する。経営陣は、小型のエントリーモデルと、その上位モデルとなる大型車を構想した。

開発は1946年に加速し、この2車種を1948年モデルとして発売し、宿敵シボレーに十分な差をつけることを目指した。ヘンリー・フォード2世がGMから採用した人材が、同社の製品ロードマップに関する貴重な洞察を持っていたことも幸いした。

ヘンリー・フォード2世は戦前に開発された旧モデルからの脱却を目指した。
ヘンリー・フォード2世は戦前に開発された旧モデルからの脱却を目指した。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ロナン・グロン

    Ronan Glon

  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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