プアマンズ・ポルシェ?  リッチマンズ・ビートル? VWカルマン・ギアに乗る

公開 : 2017.06.10 00:00

カルマンとギアのコラボレーション

ヴィルヘルム・カルマンの息子(ヴィルヘルム・カルマン博士)は、父親の意思を継いでトリノのコーチビルダー、カロッツェリア・ギアに話を持ちかけた。彼は、営業責任者のルイジ・セグレを説得しプロトタイプを作らせ、フォルクスワーゲンに、そのプロジェクトは参加に値するものだと納得させようとした。ただし、誰がそのスタイリングを実際に手がけたのかは、今でも議論の的になっている。ヴァージル・エクスナーとマリオ・ボアノは、カルマン・ギアのスタイリングに強い影響力を持っていた。とりわけエクスナーは、クライスラー向けの案件でセグレと強い繋がりを築いていた。それにもかかわらず、1948年にギア社を買収したボアノが、カルマン・ギアのフロント・エンドを手がけたことは疑う余地がない。

セグレがカルマン博士にプロトタイプのプレゼンテーションを行った時、カルマン博士は期待したコンバーチブルではなく、クーペが出てきたのでショックを受けた。しかし、そのクーペは美しかった。ノルトホフはゴーサインを出し、カルマン社は、ウォルフスブルク工場のビートル用シャシー(両端を80mmずつ拡大している)に載せてカルマン・ギアを作り上げることになるのだった。それはその後、フォルクスワーゲンのディーラー・ネットワークを通して市販されている。1955年7月14日にカルマン・ギアは、ヴェストファーレンのカジノ・ホテルにおいてプレス発表され、続いてコンバーチブルが1957年9月のフランクフルト・モーターショーで発表された。屋根を取り除くことは剛性の低下を招くので、カルマン社はそれに応じてボディとシャシーを強化しなければならなかった。これに伴う重量増が、わずかにこのクルマのキレを鈍らせるが、購入希望者は気にかけないようだった。

シンプルなホイールキャップ。

筆者は元ポルシェ912オーナー でもフェアにジャッジをしよう

ウェールズの海岸に降り落ちる雨が弱まってきた。やっと出番だ。今日の試乗車は1968年式で、カリフォルニアのインポーターが仕入れたもの。出荷時は左ハンドルだったが、英国で使用するため、見事に右ハンドル仕様に変更されている。1967年式ポルシェ912の元オーナーとして少し心配なのは、フォルクスワーゲンというだけで、比較する際に公平感をなくしてしまいそうなことだ。そこは、フェアに進めることを最初に約束しておこう。

フラット4エンジンにはオートチョークがついているので始動はたやすい。わずかなクランキングの後、勝手知ったるあの乾いたサウンドが、入り江の先まで空冷4発の始動を知らせる。この時点ですでに違いを感じたことがふたつある。私のポルシェにはオートチョークがなかったので、エンジンが暖まるまで回転を高めに保たなければならなかった。それに、純正マフラーのままでこんなに力強いサウンドは出なかったはずだ。こんなことがあったせいで、私のやっかみ根性が点火し、ぶすぶすとくすぶりを始めた。

ソレックスのシングル・キャブ。両バンクにチョークがつく。

キレの良いドライビング・フィール

それにしても、エンジンはたったの1500ccで控えめな53.7psを発するだけなのに、ずっと力強い感じだ。この左右2本出しの(純正)マフラーの唸りがそうさせる。それは、爽快とは言わないまでも、たしかに相応しいサウンドだ。いよいよ屋根を開け、絶景の続くコーナーを駆け抜ける。景色がきりもみ状態で飛んでいく。ただし、どんなにスピードを出しているつもりでも、メーターの針がのどかに這い上がっていくのを見れば、その錯覚はすぐに打ち砕かれる。このクルマはビートルとメカニカル・コンポーネンツを共有しているが、馬力の件と同様、そのハンドリングはキレが勝るようだ。ステアリングは、このクルマのようにちゃんと165/15タイヤを履いているならば、操作は軽い。重量物のエンジンが車体のずっと後ろに吊り下げられているので、コーナーを攻め始めるとオーバーステアがわずかに顔をだす。それでも、生産開始当初から取り付けられているフロントのアンチロールバーがそれを食い止めるのに役立って、臆することなく踏み込める。実のところ、ギア・チェンジには少し手を焼く。とくにサードからセカンドに入れる時だ。しかし、オーナーが事前に、シフト・チェンジには癖があって、セカンドと隣り合っているリバースにミス・シフトしない絶妙なレバーさばきを教えてくれていた。それをマスターすれば克服できるはずだ。フォトグラファーに応えて何度も走るうちに、フケのいいスロットルと操作を拒むシフトゲートを制する時があって、つい嬉しくなる。

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