【ミニの工場 行ってみた】ミニ生産は突然の決定 大きな困難 さらなる挑戦へ

公開 : 2019.12.22 10:50

記念すべき1台 いまやフォルクスワーゲンのトップ

「生産開始前のホワイトボディを使った試運転は、ふつう3~4回行うところわずか1回だけです。最初のミニは人手で運んでいましたが、まだボディ搬送用のコンベアが稼働していなかったからです」と、彼は教えてくれた。

それでも、2000年12月にラインオフしたこの最初の車両の「ボンネットの上にはバラの花束が置かれていました」と、フィッシャーは話している。

ミニ・カウリー工場訪問
ミニ・カウリー工場訪問

ロングブリッジ工場でも何台かの試作車両が生産されていたため、厳密に言えばR50世代のミニの初生産車両というわけではなかったが、それでもこの車両が記念すべき1台であることに変わりはない。

工場は明らかに活気づいていた。「BMWから多くのスタッフが派遣されていました。4つのチームに分かれていましたが、ミニを担当するチームは多忙を極めていました」と、シニアITスペシャリストを務めるジェイソン・フィールドは言う。

「カウリーはBMWのレーゲンスブルク工場をお手本にしていたので、月曜日から金曜日までドイツでトレーニングを受けるため、チャーター便まで用意されていました」

このプロジェクトの責任者だった人物はいまやフォルクスワーゲン・グループのトップを務めている。

「ヘルベルト・ディースはまさに再生請負人でした」とフィッシャーは言う。「彼はスタッフには優しかったですが、一緒に仕事をするのは大変でした」と教えてくれたが、「睡眠や食事は意気地なしの証明であり、みんな疲れ知らずでした」と冗談めかして話している。

単なる杞憂 複雑なラインの理由

それでも、こうした努力は報われたのだ。いまだかつて大ヒットモデルの生産を担当したことのなかったカウリー工場のスタッフにとって、喧噪で満たされたラインというのは初めて経験するものだった。

「メディア向けのイベントが終わった後、大量の車両が工場に残されていました」と、現在材料調達の責任者を務めるドム・ノーランは話す。「その週末、街へ繰り出すと、多くの人だかりに囲まれることになったんです」

ミニ・カウリー工場訪問
ミニ・カウリー工場訪問

それでも、まだ信じきれないものもいたようだ。

「ローバー75では、本当に素晴らしいモデルを生産することが出来たと思っていたのに、まったく売れませんでした。こうしたことが再び起こるのではないかと思ったのです」とブルックは言う。

だが、それは単なる杞憂だった。「オーダーが入るにつれ、シフトの数が増えていきました」と、かつてローバーで働き、いまではEVミニの生産準備を担当するジョン・コーワンは話す。「週末にも生産が行われるようになり、週7日のシフトが必要でした」

車両生産に加え、「設備を安定稼働させる必要もありました」とフィッシャーは話している。

「カウリー工場向けに設計された設備ではなかったので、ほとんどが寄せ集めのような状態だったことが問題の本質でした。何とか工場の建物にラインを押し込むしかありませんでした」と、彼は複雑にレイアウトされたラインが生まれた理由を説明してくれた。

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