【1930年代の最速マシン】アラード・テールワガーII フラットヘッドV8搭載 前編

公開 : 2021.09.26 07:05  更新 : 2021.10.14 16:02

0-97km/h加速8秒、0-400m16.8秒

1939年、アラードはスピード・イベントを中心に戦った。プレスコットはシドニーの得意としたイベントで、シングルシーターに次ぐ5番目のタイムを記録。FGP 750に匹敵するスポーツカーは存在しなかった。

続くイベントでも優勝し、6月にテールワガーIIはレストアされる。エンジンは4.8Lまでボアアップされ、エーデルブロック社製のマニフォールドと、ストロンバーグ社製のツインチョーク・キャブレターが2基組まれた。

アラード・テールワガーII(1938年/英国仕様)
アラード・テールワガーII(1938年/英国仕様)

クランクは91Aと呼ばれるものへ交換。ファンを駆動でき、ボンネットの高さを低くできた。ポート研磨され、フライホイールも軽量化。3.56:1のファイナルレシオが与えられた。

リフレッシュしたFGP 750、アラード・テールワガーIIは、0-400mダッシュで16.8秒を記録。それでもシドニーは満足せず、エンジンの圧縮比を高め、ワイドな7インチタイヤを履かせた。

仕上がったアラードは、助手席に人を乗せた状態で0-97km/h加速を8秒で達成。169km/hで800mを走るという、当時としては驚異的な記録を残している。だが、この性能は危険と隣り合わせだった。

シドニーは8月のプレスコットでスピン。テールワガーIIは立木に衝突しシャシーは激しく変形してしまうが、すぐにパドックで修理され、その日の午後に再び出走した。

イベントでは助手席の同乗者が必要で、モータースポーツ誌のビル・バディが果敢にも名乗り出た。フラットアウト走行では、2名乗車で最速記録を残す。

しかしゴール後にマシンが横転。バディは外へ投げ出されてしまう。幸運にも、大きな怪我は負わずに済んだという。

貴族に買われたアラード・テールワガーII

第二次大戦が始まるとテールワガーIIは売却され、1942年にハッチソンという人物が買い取る。アラードの「少ないことこそベスト」という考えを気にせず、彼は手を加えた。

ボディはアイボリーに塗られ、多くの部品がクロムメッキ加工かポリッシュされた。ハッチソンは4年間所有した後、ウェストミンスターの公爵一家で大富豪、メアリー・グローブナー卿へ1946年へ売り渡す。

アラード・テールワガーII(1938年/英国仕様)
アラード・テールワガーII(1938年/英国仕様)

1930年代からライレー・スプライトでラリーへ出場していた熱心なドライバーで、パワフルなマシンへ強く惹かれたのだろう。だが、貴族階級にアラードという聞き慣れないブランドは似合わない。イートンホール城の周辺には、馴染めなかったはず。

スプリントレースに出場後、メアリーはアラード社にテールワガーIIを送り返し、リビルドを頼んだ。その際、新しいフォード・マーキュリーのエンジンへ載せ替えられている。

FGP 750の印象的なエンジン音と跳ねるシャシーに、メアリーも驚いたと記録されている。1947年、彼女は英国西部のアングルシー島に住む自動車愛好家、ヘンリー・プリチャードへ売却した。

ガソリン価格は安くない時代だったが、ヘンリーは北部のイベントでは常連の人物。FGP 750を気に入り、16年間も維持していた。続いて、ヨークシャーでガレージを営むモーリス・ベテルが1966年に購入。アラードは、多彩なコレクションの仲間入りを果たす。

彼の父は、高性能すぎるアラードを好きになれなかった。いつか息子が運転中に死ぬのではと考え、売却を迫ったらしい。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジェームズ・マン

    James Mann

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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