葉巻をくわえた時計職人、スマートを作る 「クルマのことはよく知らなかった」 歴史アーカイブ
公開 : 2025.12.24 17:25
超小型の2人乗り車で知られるスマートは、ニコラス・ハイエック氏の発案で生まれました。フォルクスワーゲンやメルセデス・ベンツとの関係の中から、いかにしてブランドが生まれたのか。当時の記事を振り返ります。
スマートはいかにして生まれたのか
今年初め、スマートは新型の小型2人乗り車を開発中だと発表した。同ブランドが30年前に創設された際の「原点」への回帰と言えるだろう。
収益性の確保には苦労したようだが、新型車の開発プロセスは初代『シティクーペ』よりもはるかに順調に進んでいる。

AUTOCAR誌がシティクーペについて初めて報じたのは、1990年2月のこと。翌夏には発案者ニコラス・ハイエック氏がフォルクスワーゲンと契約を結んだ。
レバノン生まれのハイエック氏は当時63歳で、スウォッチ・グループの創業者として知られ、「しわくちゃで、葉巻をくわえた経営コンサルタント」と紹介されている。
カシオなどの新興企業との競争に飲み込まれたスイス時計メーカー2社の清算を指揮した後、1985年から部品点数を大幅に削減し、生産工程をほぼ完全自動化し、大胆で創造的なマーケティング手法を採用した。その結果、1990年までにスイス時計の売上は日本の3倍に達した。
ハイエック氏は自らのスウォッチモービルを「2人の人間とビール2ケース」を運べる小型EVと説明した。当時の価格は3570ポンド(現在の価値で約8280ポンド=約175万円)だった。
「時計のことを何も知らなかったように、クルマのことも知らなかった。わたしはただ、6歳の頃と変わらぬ夢を持ち続けた太った老人だ」と彼は言った。
「わたしを駆り立てるのは、何か新しいことを始め、何かを作り、何かを変えることだ。金なら十分以上ある。この文明の退廃と戦うような、何か良いことに貢献できれば嬉しい」
ハイエック氏が目指した革新的な超小型車
彼の考えは決して独りよがりなものではなかった。ゼネラルモーターズ、フォルクスワーゲン、BMW、日産、そして複数の新興企業が当時、SF世界の代物だったEVを現実にしようと奮闘していた。
「今あるおもちゃみたいなEVではなくて、本物のクルマでなければいけない。だからこそ、自動車エンジニアではなく電気エンジニアをプロジェクト責任者に据えているのだ」

スウォッチモービルのテスト走行が初めて目撃されたのは1993年の初めだった。この時点で発売はすでに2年遅れ、1997年へと延期されていた。バッテリー技術は予想ほど進歩しておらず、航続距離の短さと高価格化は避けられなかった。
しかし、当時のAUTOCAR誌は「ハイエック氏の目標は、おしゃれなスウォッチ車をできるだけ安価に販売し、階級を超えたトレンド車にすることだ」と伝えている。そのため、EVではなく、250ccの4ストロークガソリンエンジンと鉛蓄電池を組み合わせたハイブリッド車への設計変更を余儀なくされた。
ハイエック氏は「プラスチック製ボディパネルを用いた多彩なボディカラーとスタイルを展開し、画期的な交換式塗装フィルムシステムにより、オーナーが気分に合わせてスウォッチのカラーを変更できるようにする」という計画を立てていた。
フォルクスワーゲンによる支援を受けていたが、車両開発の大半はスイスのスウォッチ社が行い、地元の工科大学も協力していた。とはいえ、この頃はフォルクスワーゲンにとって厳しい時期であり、損失が膨らみ生産台数は急落していた。
そこでフェルディナント・ピエヒ氏が経営のトップに立ち、投資を大幅に削減し、社内で進める小型ハイブリッド車『チコ』の開発を最優先した。
ピエヒ氏は後の回想で「自社開発車の方がはるかに優れているように思えた」と語っている。「わたしにとって(スウォッチは)象の履くローラースケートのようなもので、実用的なバブルカーですらなかった」





































