1960年式ダッジ・ポラーラ 最先端だったテールフィンのフルサイズ 前編

公開 : 2021.11.27 07:05

クライスラーで活躍した、デザイナーのエクスナー氏。フォワード・ルックの代表作を英国編集部がご紹介します。

宇宙開発競争時代の最先端スタイリング

執筆:Greg Macleman(グレッグ・マクレマン)
撮影:James Mann(ジェームズ・マン)
翻訳:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
1950年代のアメリカでは、まだ豊満なスタイリングのクルマがフリーウエイを走っていた。なかでも、KTケラー氏が社長に就任していた頃のクライスラーは、その典型的なモデルだったといっていい。

真面目な銀行員や税理士には受けても、戦後の団塊の世代が思わず目を奪われてしまうようなモデルは、提供していなかった。だが、デザイナーのヴァージル・エクスナー氏の登場で一変する。

ダッジ・ポラーラ(1960年/北米仕様)
ダッジ・ポラーラ(1960年/北米仕様)

1950年代後半にアメリカとソ連の間で加熱した、宇宙開発競争。ロケットやジェット機に触発されたような最先端のスタイリングが、クライスラーを大きく変えたのだった。

堅実なクルマたちは、スペースエイジなテールフィンと丸いテールライトで華やかに飾られた。1960年に登場したフルサイズのハードトップ、初代ダッジ・ポラーラを代表に。

それ以前は、エンジニアの意見が最優先。新モデルが形になると、カウボーイハットを被ったケラーが乗り込み、身体を激しく上下に揺さぶったらしい。もし社長の帽子が天井に当たれば、デザインのやり直しが指示されたという。

しかし、1950年にクライスラーの社長はレスター・ラム・コルバート氏へ交代する。その2年後に、エクスナーがスタイリング部門のディレクターとして就任。1955年モデルから、彼の手腕が発揮され始めた。

1億ドルの価値があるルックス

ミシガン州に生まれたエクスナーは、自動車のスタイリングを就学。最初に務めたゼネラルモーターズからレイモンド・ローウイーの事務所、スチュードベーカーを経て、クライスラーに移籍した。

デザイナーのハーリー・アール氏と、彼によるP-38ライトニング戦闘機に影響を受けたという1948年式キャデラックなどに触発され、エクスナーは大胆なスタイリングをクライスラーで展開。時代を象徴するような流行が、ボディへ落とし込まれていった。

ダッジ・ポラーラ(1960年/北米仕様)
ダッジ・ポラーラ(1960年/北米仕様)

エクスナーのスタイリングで特長だったのが、低いルーフラインと長いボンネット、テールに切り立ったフィンに、ジェットエンジンの噴出口のようなテールライト。1957年が始まる頃には、1億ドルの価値があるルックスだとデトロイトで話題を呼ぶ。

通称「フォワード・ルック」と呼ばれるモダンなスタイルを構築し、古巣のゼネラルモーターズは、ラインナップ全体の見直しを余儀なくされた。さらに彼のスタイリングは世界中に波及。フォード・コンサルなどの英国車へも影響を与えている。

クライスラーの1ブランド、プリマスも新時代のスタイリングの到来を歓迎した。だがその流行期間は意外に短く、10年弱。4代目リンカーン・コンチネンタルなどでは、シャープで引き締まった次のスタイルへ、嗜好は変化していった。

彼が手掛けたモデルで、その極地にあるといえるのが、今回ご紹介するダッジ・ポラーラだろう。1950年代に輝いたスペースエイジな造形を、最後にまとったクルマの1台だ。

記事に関わった人々

  • 執筆

    グレッグ・マクレマン

    Greg Macleman

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジェームズ・マン

    James Mann

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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