アルファ・ロメオ・アルナ – 1984年

イタリア車と日本車の優れた部分を組み合わせるのは理にかなっているが、アルナはどちらも実現できておらず、むしろ両者の苦手分野を融合させている。アルファ・ロメオは日産チェリー(日本名:パルサー)に自社の直列4気筒エンジンを搭載し、アルファスッドに代わる小型ハッチバックモデルとした。日産はチェリーの名を冠したモデルで欧州市場に足がかりを得た。

良い走りを見せたアルファスッドの後では、アルナの退屈なハンドリングにアルファ・ロメオのオーナーたちもがっかりした。日産車のような造りの良さもなく、外観もアルファ・ロメオらしいセンスに欠けていた。3年間でわずか6万1750台しか製造されなかったため、両社はこのプロジェクトをひっそりと葬り去った。

アルファ・ロメオ・アルナ - 1984年
アルファ・ロメオ・アルナ – 1984年

メルクールXR4Ti – 1984年

フォード・シエラXR4iが欧州で人気を博した一方で、その米国版であるメルクールXR4Tiは的外れだった。欧州仕様の2.8L V6エンジンではなく、ターボチャージャー付き2.3L 4気筒エンジンを搭載せざるを得なかったことも、販売の足を引っ張る要因となった。出力にそれほど大きな違いはなく、メルクールは0-97km/h加速タイム7秒を誇ったが、米国の購買層はそれをどう評価してよいのか分からなかったのだ。

年間2万5000台の販売予測は実現せず、最高でも1986年の1万3559台にとどまった。1989年までの累計販売台数は4万2464台であったが、一方でフォード・マスタングの販売台数は1985年だけでも15万6514台に上る(これでも低迷した方)。

メルクールXR4Ti - 1984年
メルクールXR4Ti – 1984年

キャデラック・アランテ – 1986年

キャデラックが、メルセデス・ベンツSLの対抗馬となるロードスターを作りたいと考えたのは、米国の高級車ユーザーをめぐって直接競合していたことを考えれば、無理からぬことだった。しかし、アランテのボディをイタリアのピニンファリーナで製造し、特別に改造したボーイング747で56台ずつ米国に空輸して組み立てるというプロセスは、途方もないコストがかかった。

コストも問題だが、もう1つの問題は、メルセデスに匹敵するほどの品質が得られなかったことである。当初はエンジンも競合車に及ばなかったが、1989年には改善された。しかし、時すでに遅し。7年間でたった2万1430台しか販売できなかった。

キャデラック・アランテ - 1986年
キャデラック・アランテ – 1986年

ボルボ480 – 1986年

これは、1980年代に求められるすべての条件を満たしていたはずだ。リトラクタブル・ヘッドライト、ウェッジシェイプボディ、ターボチャージャー付きエンジン、そして見た目にはわからないが信頼の置ける自動車メーカーによる設計と製造……。しかし、480の販売台数は9年間で8万463台にとどまり、1986年から1991年まで販売された地味な300シリーズには遠く及ばなかった。

480の問題の大部分は、ボルボの従来の顧客層にとってはあまりにも先進的すぎたことにある。ボルボ初のFFモデルに不安を抱く人もいた。また、ボルボを堅物と考え、フォルクスワーゲン・シロッコやトヨタ・セリカGTのようなわかりやすいクーペを選ぶ人もいた。しかし、ボルボにとっては興味深い挑戦であったことは確かである。実現はしなかったが、コンバーチブルも計画された。

ボルボ480 - 1986年
ボルボ480 – 1986年

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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