【1995年ル・マン日本人初優勝を振り返る】レジェンド関谷正徳氏と佐藤万璃音選手がマクラーレン・ドライバー対談!

公開 : 2025.10.05 17:05

9月27日、マクラーレンは関谷正徳氏と佐藤万璃音選手のトークショーを富士スピードウェイホテルで開催しました。佐藤選手は、WECのLMGT3クラスに95号車のマクラーレン720S LMGT3エボで出場中です。

マクラーレンF1GTRで日本人初優勝

9月27日、マクラーレン・オートモーティブは、関谷正徳氏と佐藤万璃音選手のトークショーを富士スピードウェイホテルで開催した。

その週末は富士スピードウェイで世界耐久選手権第7戦が開催されていて、佐藤選手は、LMGT3クラスに95号車のマクラーレン720SGT3エボで出場中。この日は土曜日ということで、予選の合間を縫って駆け付けた形だ。

関谷正徳氏が日本人初優勝を果たした1995年のル・マン。
関谷正徳氏が日本人初優勝を果たした1995年のル・マン。    マクラーレン・オートモーティブ

なお、プライベーターであるユナイテッド・オートスポーツは59号車と95号車の2台体制でエントリー。95号車はダレン・リョン選手、ショーン・ゲラエル選手、そして佐藤選手の3名がドライバーを務める。

関谷氏といえば、1995年のル・マン24時間耐久レースで日本人初優勝を遂げたレジェンドドライバー。マシンはマクラーレンF1GTRで、そういった縁でこの組み合わせによるトークショーが実現した。

最初はMCの中島秀之氏と関谷氏のふたりでスタート。まず、1995年にマクラーレンに乗ることになったきっかけは、とある関係者との立ち話だったという。

その年のル・マンはシートがなく、日本でマクラーレンを扱うその知人に「乗るクルマない?」と相談したのが始まりだった。そこから順調に話は進み、開発車両だったF1GTRでの出場が決まったという。

しかしスケジュールはギリギリで、初めて乗ったのはレースウィークの水曜日だった。

「難しいクルマだとはわかっていました。リアのBMW製V12は重いですしね。手強いクルマだと思っていたら案の定でした」

結局トラブルもあり、わずか5~6周の走行で本番に突入。雨の中で激しい戦いも繰り広げるも、見事にマクラーレンへ勝利をもたらしたのであった。

「チームにもマクラーレンにも、価値ある勝利」

スケジュールの関係で少し遅れての登場となった佐藤選手。レースを知る前から現役だった大先輩を前に恐縮しながら、歴史あるブランドのマクラーレンでレースができていることに感謝を述べた。

そして95号車は、アメリカで開催された第6戦でクラス優勝を果たしている。

トークショーに参加した関谷正徳氏(右)と佐藤万璃音選手(左)。
トークショーに参加した関谷正徳氏(右)と佐藤万璃音選手(左)。    マクラーレン・オートモーティブ

「チームにもマクラーレンにも、価値ある勝利となりました。2位でチェッカーを受けて、悔しいレースをしたと思っていたので、正直、自分で勝ったという認識はありません。しかし日本人として一番上のリザルトであり、誇らしいです」

マクラーレンのマシンに関しての印象は、こう語っている。

「GT3のキャリアは昨年からですが、レーシングカー的な乗り味で困ることはありませんでした。実は先日750Sのロードカーにも乗せて頂いたのですが、リストリクターがなくレーシングカーよりもはるかにパワーがあるので、衝撃的でした」

関谷氏も「試乗コースとなった箱根ターンパイクでは、とても750馬力は使えなかったね」と笑顔を見せた。

記事に関わった人々

  • 執筆 / 編集

    平井大介

    Daisuke Hirai

    1973年生まれ。1997年にネコ・パブリッシングに新卒で入社し、カー・マガジン、ROSSO、SCUDERIA、ティーポなど、自動車趣味人のための雑誌、ムック編集を長年担当。ROSSOでは約3年、SCUDERIAは約13年編集長を務める。2024年8月1日より移籍し、AUTOCAR JAPANの編集長に就任。左ハンドル+マニュアルのイタリア車しか買ったことのない、偏ったクルマ趣味の持ち主。

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事