マクラーレンF1 GTR(1) 老舗百貨店がスポンサーのル・マン・マシン 史上最大級の番狂わせ
公開 : 2025.06.14 17:45
老舗百貨店、ハロッズがスポンサーに付いたF1 GTR ライバルはプロトタイプマシン 最後の数時間は5速と6速だけで走行 豪雨の1995年のル・マンを戦った51号車を、UK編集部が振り返る
もくじ
ーロンドンの老舗百貨店、ハロッズがスポンサーに
ー低調な販売を上向かせるためのレース出場
ー経営者が住む建物にあったショールーム
ー24時間に耐えるF1 GTRは不可能だった予算
ーGT1のライバルはプロトタイプマシン
ロンドンの老舗百貨店、ハロッズがスポンサーに
ハロッズといえば、英国ロンドンの老舗百貨店。そんな上流階級の御用達が、ル・マン・マシンのスポンサーになった時があった。イエローに塗られた51号車のマクラーレンF1 GTRは、1995年の耐久レースで、史上最大級の番狂わせを披露した。
伝説的ドライバー、デレック・ベル氏を招聘したハロッズのF1 GTRは、10時間に渡ってレースをリードした。しかし、ゴールを目前にクラッチが故障。最終的には3位で完走となったが、初参戦としては見事な結果だったことは間違いない。

ハロッズは、どんな経緯で世界屈指の耐久レースへ参入したのか。初挑戦のマクラーレンが、レースをリードできた要因は何だったのか。優勝車の逸話も含めて、今回は振り返ってみたいと思う。
低調な販売を上向かせるためのレース出場
この物語りの始まりは、ゴードン・マレー氏の傑作スーパーカーを売るため、ロンドン・ハイドパークに面した通りに、マクラーレンがショールームを開いたことにある。1994年当時、世界的に景気は停滞し、F1といえども販売は低調だった。
レースに参戦する計画はないと、マレーは当初主張していた。しかし、同社で複合素材部門の責任者を務めていたジェフ・ハゼル氏は、必然の結果だったと振り返る。「販売は完全に停滞していました」

「1994年に執行部での会議が開かれ、販売向上の方策を話し合いました。提案されたアイデアは少なかったのですが、レースに出場してはどうかと、自分は発言したんです」
これは、レーシングドライバーのレイ・ベルム氏とトーマス・ブッシャー氏が、マクラーレンを率いたロン・デニス氏へ、レーシングカー仕様の製作を願い出ていた時期と重なった。だが、後にGTRが付記されるF1を仕上げるには、5台の注文が必要だった。
経営者が住む建物にあったショールーム
そこで登場するのが、老舗百貨店。マクラーレンのハイドパーク・ショールームは、ハロッズを経営するアルファイド家が所有する建物に置かれていたのだ。故モハメド・アルファイド氏は、1980年代にその建物を購入し、家族と暮らしていた。
その頃、マクラーレンの営業部長だったデビッド・クラーク氏が回想する。「ほぼ毎日、彼ら(アルファイド家)をお見かけしていました。息子のムーディさんは、取り組むべき目標を探していた時期でもあったようです」

「ある時、モハメドさんたちと夕食をした夜に、マシンを走らせて欲しいと突然頼まれたんです」。かくして、急速に人気が高まっていた、BPR GT耐久シリーズへ向けたマシン開発が進み始めた。
マクラーレンと顧客との競争を避けるため、参戦部隊はデビッド・プライス・レーシング(DPR)へ託された。モハメドは、設立者のデビッド・プライス氏と意気投合。ドライバーには、ブッシャーに加えてジョン・ニールセン氏も指名された。








































































































