伝説のラリーカーからロータリーエンジン搭載ファミリーカーまで 豊かな歴史が詰まったアウディ博物館の至宝(後編)
公開 : 2026.06.13 11:45
NSU Ro80(1967年)
NSUは、今日わたし達が知るアウディの形成において、小さいながらも重要な役割を果たした。失敗作として記憶されているものの、Ro80は1967年のデビュー当時、最も先進的なファミリーカーの1つとして称賛された。NSU初の前輪駆動車であり、そのデザインは時代を遥かに先取りしたものだった。
また、コモトールという合弁事業を通じてシトロエンと共同開発したツインローターのヴァンケルエンジンを搭載している。

ヴァルケルエンジンは滑らかだが、信頼性に欠けており、NSUはそうした不具合を解消できなかった。Ro80は燃費も悪く、第1次石油危機の直後という時期においてこれは重大な問題となり、購入者からの膨大な数の保証請求の結果、NSUは深刻な財政難に陥った。
フォルクスワーゲンは1969年にNSUを買収し、後にアウトウニオンと合併して、今日のアウディブランドを誕生させた。フォルクスワーゲンが本当に興味を持っていたのはNSUという名前ではなく、その生産能力だった。
アウディは現在もネッカーズルムにあるNSUの旧工場で操業を続けており、そこでA5などのモデルを生産している。
アウディ100(1968年)
アウディのエンジニアたちは、極秘裏に100の開発に着手した。親会社であるフォルクスワーゲンから新モデルの開発許可を得ていなかったため、100の存在は最後の瞬間まで公表されなかった。
フォルクスワーゲンは、(極端に言えば)単にビートルの生産台数を増やすためにアウディの生産能力を欲していただけであり、おそらくこの開発を承認しなかっただろう。従業員たちはブランド存続を強く望み、目立たぬよう勤務時間外にプロジェクトに取り組んだ。

100が完成した際、アウディはフォルクスワーゲンを招き、既存モデルのマイナーチェンジ案として審査してもらった。しかし、幹部たちは騙されていたことに気づき激怒した。
100は単なる改良版ではなく完全な新型車であり、実質的にビートルに反旗を翻した反抗的な作品だったからだ。だが、その良さを雄弁に物語ったのは100そのものであり、モダンで、軽量、俊敏、そして驚くほど燃費が良かった。
経営陣は最終的に冷静さを取り戻し、アウディに10万台の生産を許可した。結果として約83万台が生産された後、1976年に生産終了した。
アウディ50(1974年)
1970年代初頭、NSUは旧式化したプリンツの後継となる、まったく新しい前輪駆動の小型車の開発に着手した。フォルクスワーゲンは、NSUブランドの休眠を決定した後、ほぼ完成していたこのモデルをアウディに譲渡した。「50」と名付けられたこのモデルは、アウディのエントリーモデルとして位置付けられ、第1次石油危機の余波を乗り切る上で大きな役割を果たした。
フォルクスワーゲンは1975年、50のバッジエンジニアリング車であるポロの生産を開始した。アウディ版よりも安価で、人気も高かった。経営陣が、アウディはより大型で高価な車両に注力し、経済的なクルマはフォルクスワーゲンに任せるべきだと決定した後も、ポロは存続した。ポロはその恩返しとして、2010年に初代A1に、そして2018年には2代目A1にプラットフォームを提供した。





























