もう一度アスファルトへ 1935年製ブガッティ・タイプ59を再生 前編

公開 : 2019.11.17 07:50  更新 : 2020.12.08 10:56

充分な競争力を持っていたグランプリマシン

紫色に塗り直されたタイプ59は233psを発揮。英国では充分に競争力の高いクルマだった。バロンはスプリントレースで最速タイムを連続して記録。開戦間際、ブルックランズで開かれたヒルクライムレースでも優勝している。

戦争が終わると、エンスージァストは古いレーシングカーを物色し始めた。ブガッティ59は、HWM社でエースを務めるレーシングドライバー、ジョージ・アベカシスらによって購入された。

ブガッティ・タイプ59(1935年)
ブガッティ・タイプ59(1935年)

戦後初めてのレースとなったグランズデン・ロッジ・エアフィールドでは、アベカシスはブガッティにサイクルフェンダーを付け、特性の混合燃料を搭載。会場までの130kmを自走した。途中のバーネット・バイパスでは190km/h以上のスピードが出たようだ。

ロータリー交差点ではスピードの出しすぎでスピンを何度か繰り返したものの、クルマの実力に自身を持ったアベカシス。その後のレース本番でも優勝している。

アベカシスはタイプ59をとても気に入った。リアタイヤをダブルで履き、青く塗り直したタイプ59は、英国ヒルクライム・チャンピオンシップで高い実力を示す。1947年のシーズンを劇的に走らせた。

それから2年ほどアベカシスはタイプ59を走らせたあと、ケネス・ベアに売却する。彼はブガッティ・オーナーズクラブの創設メンバーで、マン島でのレースでは優勝経験もあるドライバーだ。

整備不良に寄る死亡事故

彼はスーパーチャージャーを取り外し、スタッフォード・イーストが開発したゼニス・キャブレターを4基搭載した。ベアはヒルクライムでの成功を喜び、1948年のザントフォールト・サーキットで開かれたオランダ・グランプリなど、海外にも遠征している。

英国本土では一般道でのレースは禁止されていたが、1949年にジャージー島で開かれたレースには、9台のマセラティと8台のERA(イングリッシュ・レーシング・オートモビル)など、そうそうたる顔ぶれとなった。16歳を迎えていたブガッティも、ベアのドライブで参戦した。

ブガッティ・タイプ59(1935年)
ブガッティ・タイプ59(1935年)

しかし午後の練習走行中に悲劇が襲う。チームは彼の友人、スタッフォード・イーストが運営していたが、プリセレクター・トランスミッションの修理に追われていた。恐らくその疲れで、タイプ59の特徴でもあるブレーキ・コンプレッサーのリンケージ固定を忘れていたのだ。

数周の走行後、タイプ59がブレーキケーブルを引きずっているのが確認されていた。タイトなル・マーカンド・コーナーに高速で侵入するが、リアの左ブレーキがロック。ブガッティは激しくスピンし壁に激突。ベアは路上に投げ出され、数時間後に亡くなってしまう。

ベアとイーストとは親友を超えた仲で、半ば兄弟のような関係だった。ブレーキのリンケージ不良という事実。イーストの深い罪悪感と絶望感は想像に難くない。

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