【ラリーをマキシマム・アタック】WRCグループBを戦ったマルク・アレン 後編

公開 : 2020.05.31 16:50  更新 : 2022.11.01 08:57

剥奪されたドライバーズ・タイトル

英国では2位となり、オリンパスでは優勝。アレンは1986年のドライバーズ・タイトルを獲得する。

ところが、プジョー・タルボ・スポーツによる主催者側への抗議の末、ラリー・サンレモでのアレンの勝利は無効に。その結果、ユハ・カンクネンがドライバーズ・タイトルを奪取した。

インタビューに答えるマルク・アレン
インタビューに答えるマルク・アレン

「いまだに何が起きたのか、事実をしっかり把握していません。政治的な判断が加わったのかもしれません。サンレモでプジョーがラリーを最後まで走れなかった理由と、結果が覆された理由は、理解に苦しむところです」

「ラリーの後半で(プジョーを)出場停止にしても、意味はなかったと思います。プジョー側の抗議が認められたとはいっても、結果的にもとへは戻ることはありません」

「もしプジョーが最後まで走って、そのステージでユハ・カンクネンに次ぐ2位でも、最終的にわたしがタイトルを獲得していたかもしれません。誰も予想はできませんよね」

「とても酷い扱いでした。ユハには何の問題もありません。この話題は、わたしにとっても喜ばしいものではありませんよ」

グループBは、1986年をもって安全面の理由から終了する。1987年からは、グループAがWRCのトップカテゴリーとなった。アレンは、この変更も正しいアプローチだったとは考えていない。

「わたしはグループBのクルマが好きでした。パワーのあるクルマが好きでした。グループAは300psしかなく、退屈でしたから」 運転する仕草をしながら、アレンが話す。

今はフェラーリのテスト・ドライバー

アレンはマティーニ・カラーのランチア・デルタ4WDとインテグラーレをドライブし、好成績を残した。1988年の英国RACラリーでは、WRCキャリアとして最後の勝利を獲得している。

1989年には、スバルトヨタのドライバーとして、部分的にラリーへ参戦。最前線でのキャリアに幕を閉じた。

その後は、セミ・ワークスチームのアルファ・ロメオ155に乗り、DTMを戦った。またアンドロス・トロフィー・アイスレース・シリーズから、ダカール・ラリーまで、幅広く活躍を続けている。

近年、彼はフェラーリのテスト・ドライバーとして、量産モデルの開発へ携わっている。フィンランドではテレビ番組に出演。海外での経験を語る機会も多いそうだ。

写真撮影を済ませ、最後に質問を投げかけてみた。不意のことに、少し戸惑う表情を見せたアレン。「クルマの運転を怖く感じたことはないか?ですか。今まで運転した経験では、ありませんね」

少し間を置く。「ラリーでは怖いと思ったことはありませんが、レースではあります。1980年、ランチア・ベータ・モンテカルロ・ターボでル・マンを走った時は、心地良いものではありませんでした」

「まったく落ち着きませんでした。ミュルザンヌのストレートを全開で走っていると、今、何をしているんだという、という不安な気持ちになりました。その時くらいですね」

インタビューは無事に終了。われわれが聞きたい決めゼリフは、まだだった。アレンも、それを知っている様子。そして、最後に口にしてくれた。

「OK、マキシマム・アタック!」

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