【もうすぐ新型登場】トヨタ86/スバルBRZ、何をもたらした? 豊田章男社長の治世の象徴と言えるワケ

公開 : 2020.11.11 05:50  更新 : 2021.10.09 23:42

スバルは2020年11月18日に新型BRZ公開を予告。兄弟車トヨタ86の新型もおいおい発表されるでしょう。誕生が何をもたらしたのかを考えます。

86/BRZ誕生 きっかけになった人物

text:Kenichi Suzuki(鈴木ケンイチ)

スバル「BRZ」はトヨタ「86」の兄弟車だ。クルマ好きであれば、誰もが知っているとは思うが、「86」と「BRZ」は、トヨタとスバルの共同開発車であり、生産はスバルが受け持つ。

そして、そもそもの発端はトヨタにある。

トヨタ86。写真は2020年発表の特別仕様車GTブラック・リミテッド
トヨタ86。写真は2020年発表の特別仕様車GTブラック・リミテッド    トヨタ

トヨタが新たなスポーツカーを望み、その手法としてスバルとの共同開発が選ばれ、そして兄弟車「BRZ」が生まれた。

一方で、スバルにとって「BRZ」はトヨタとの絆を深めるのに大いに役立ったが、トヨタと比べれば、スバルのブランドやビジネスに与えた影響は小さい。

逆にトヨタにとって「86」の意味は重要だ。なぜなら、その誕生は、現社長である豊田章男氏が大きく関わっており、さらには、その後の社長時代を象徴するような存在になるからだ。

トヨタが新たなスポーツカーを求めたのは2000年代中盤であった。

「若者のクルマ離れという問題の解決策として新たなスポーツカーが必要である」という方針が経営陣の会議で決まった。

実際のところ、新型スポーツカーの案は、毎年のように提案されていたが、それまでは常に却下されていた。

しかし、当時、副社長であった豊田章男氏の推しを得て、スポーツカー案がついに現実のものとなったのだ。

その後、2009年の東京モーターショーに「FT-86コンセプト」が登場する。そして、2011年の「FT86-IIコンセプト」と続き、2012年となって正式にトヨタ「86」とスバル「BRZ」は発売となった。

2000年代中盤にトヨタが新たなスポーツカーを望んだのは、なぜだったのだろうか。

拡大路線を邁進 消えたスポーツカー

2000年代中盤にトヨタが新たなスポーツカーを望んだ理由は、それ以前のトヨタの姿勢にあると言えるだろう。

豊田章男氏がトヨタの社長になるのは2009年のこと。2008年のリーマンショック直後での起用だ。

2002年に生産終了した4代目トヨタ・スープラ。
2002年に生産終了した4代目トヨタ・スープラ。    AUTOCAR英国編集部

そして、そのリーマンショック前の時代のトヨタは、コスト削減と規模拡大に突っ走っていた。

1995年ごろのトヨタの海外販売は約250万台といったところ。ところが2000年代にはいるとグイグイと数を伸ばし、2007年には、それまでの過去最高の680万台にまで達する。

10年ちょっとで規模を2倍以上に拡大させたのだ。

その成長時代となる2002年から、トヨタはF1に参戦したが、戦績は振るわなかった。また、2002年に先代の「スープラ」が生産を終了し、2006年に「セリカ」、そして2007年は「MR-S」も生産が終わって、とうとうトヨタにスポーツカーが消えてしまうことになる。

ビジネス的には大きく成長したものの、スポーツカーはないわ、モータースポーツでは振るわず。端的に言えば、トヨタは若者に人気のあるブランドではなくなりかけていたのだ。

そんな中で、「86」のプロジェクトの承認が下りたことになる。そして、2008年に世界を揺るがすリーマンショックが勃発。

トヨタの経営にも大きな影が差し、その挽回のためにと言う意味もあり、創業家出身となる豊田章男氏が社長に就任。

それが2009年のことであった。

記事に関わった人々

  • 鈴木ケンイチ

    Kenichi Suzuki

    1966年生まれ。中学時代は自転車、学生時代はオートバイにのめり込み、アルバイトはバイク便。一般誌/音楽誌でライターになった後も、やはり乗り物好きの本性は変わらず、気づけば自動車関連の仕事が中心に。30代はサーキット走行にのめり込み、ワンメイクレースにも参戦。愛車はマツダ・ロードスター。今の趣味はロードバイクと楽器演奏(ベース)。

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