【1年違いのラリーチャンプ】タルボ・サンビーム・ロータスとアウディ・クワトロ 前編

公開 : 2021.09.18 07:05  更新 : 2022.11.01 08:53

交代するように登場したアウディ・クワトロ

「トラクションが明らかに不足していましたよ」。実際、サンビーム・ロータスは世界ラリー選手権のラウンドで2度しか優勝していない。ヘンリ・トイヴォネンによる1980年のラリーGBと、フレクランによる1981年のアルゼンチンだ。

それでも1981年には入賞を重ね、タルボはマニュファクチャラーズ・タイトルを掴んだ。だが翌1982年、親会社のグループPSAはサンビームの引退を決定。グループBの、プジョー205 ターボ16に注力する。

ブラックとシルバーのタルボ・サンビーム・ロータスと、ダークブルーのアウディUrクワトロ
ブラックとシルバーのタルボ・サンビーム・ロータスと、ダークブルーのアウディUrクワトロ

市販のタルボ・サンビーム・ロータスも、1982年に生産が終了。述べ2308台で幕を閉じた。

交代するように姿を表したのが、Urクワトロだ。アウディの技術力を世界中に誇示するべく、技術者のフェルディナント・ピエヒが、ポルシェ917やブガッティ・ベイロンなどに準じるプロジェクトとして推し進めたものだった。

その起源は、ドイツ政府軍からの依頼によるオフローダー、イルティス。アウディの技術者を務めた、ローランド・グンペルトへ以前インタビューした内容を振り返ってみよう。

「スカンジナビアでのテスト走行に、前輪駆動のアウディを30台ほど持ち込んでいました。わたしは屋根のないオフローダーに乗っていましたが、直線では遅いものの、カーブの連続する区間では簡単に追い回せたんです」

「上司のイェルク・ベンシンガーへ、四輪駆動の量産車を作るべきだと提案しました。その間にイルティスの開発が完了し、わたしは量産に向けた準備へ。以降はウォルター・トレーサーがクワトロの開発を引き継いでいます」

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ベン・バリー

    Ben Barry

    英国編集部ライター
  • 撮影

    オルガン・コーダル

    Olgun Kordal

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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