ロータス・エリート 初代オーナーは本田宗一郎氏 レストアを終え日本へ 前編

公開 : 2022.01.01 13:45

あの本田宗一郎氏がオーナーだったという、見事なレストアを受けたエリートを英国編集部がご紹介します。

ロータス・エリートを輸入した本田宗一郎氏

自動車の進化に大きな貢献を果たした技術者の1人、コーリン・チャップマン。ロンドン北部、ホーンジーの小さな納屋から始まり、チェスハントへ小さな工場を建設。ロータス・カーズとして独自性の高い自動車を生み出した。

ちょうど同じ頃、東アジアの日本にも、偉大なエンジニアが自らのアイデアをカタチにしようとしていた。1946年に現在の本田技研工業を創業した、本田宗一郎氏だ。

ロータス・エリート・タイプ14(1962年)
ロータス・エリート・タイプ14(1962年)

その頃の東京は、都市再建の真っ最中。大きなアメリカ車と、マツダK360やダイハツ・ミゼットといった、小さな三輪トラックで溢れていた。

バイクの製造でホンダが急成長していた1962年、宗一郎は自らのビジョンを描くきっかけの1台となる、小さなスポーツカーを輸入する。ポピー・レッドに塗られた、シャシー番号EB1837のロータス・エリート・タイプ14だ。

宗一郎は、MGAやジャガーMk2といった欧州車を何台か所有していた。そのなかでもガラス繊維、FRPで成形されたモノコック構造に、ホンダの若き技術者たちは強く感心を寄せたようだ。公道用モデルとしては、画期的な設計だったといえる。

日本の経済成長に向けて、ホンダもバイクから自動車の製造へ一歩を踏み出そうかというタイミング。オースチンA30をノックダウン生産した日産など、既存モデルを足掛かりとするメーカーもあったが、ホンダはゼロからの開発という手段を選んだ。

S600の車内に見えるエリートの影響

ライトウエイト・スポーツのロータス・エリートからも、着想を得たようだ。「エリートは世界初の、卵のようなクルマでした」。と話すのは本田博俊氏。宗一郎の長男で、ワークス部門の無限、現M-TEC社を立ち上げた人物だ。

「フレームも独立シャシーもなく、当時はUFOのような存在でした。父は、新しいものへ常に関心を寄せていましたね」。そう話す博俊も、自宅のガレージにこもりエリートを分解。FRPシェルの構造を理解しようとしたという。

ロータス・エリート・タイプ14(1962年)
ロータス・エリート・タイプ14(1962年)

ホンダ初のスポーツカー、S600にもその影響は及んだ。「父はコピー製品を嫌っていました。でもS600のダッシュボードや、スピードメーターとタコメーターのデザインは、エリートにとても似ているとわたしは思います」。と博俊が振り返る。

創業者の長男でありながら、その頃に父から与えられた自社製品はスクーターのスーパーカブだけだったという。父のMGAへは当初、真夜中に引き出しから鍵を取り、こっそり手押しで道まで運び、エンジン始動と同時に走り去るように乗っていたそうだ。

しばらくしてMGAに対する宗一郎の関心が薄れると、博俊は自由に乗ることが許された。ところが、デート目的で貸した友人に事故で壊されてしまう。「父は、わたしの外出を禁止しました。修理代金の支払いなどには触れられませんでしたが」

MGAと同様に、博俊はロータス・エリートも運転できるようになった。「父はコーリン・チャップマンを嫌っていて、エリートを借りていいかどうか、それまでは聞く機会もありませんでした」

記事に関わった人々

  • 執筆

    グレッグ・マクレマン

    Greg Macleman

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ロータス・エリート 初代オーナーは本田宗一郎氏 レストアを終え日本への前後関係

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