可憐なボディに直6エンジンのサソリ アバルト2200 スパイダー 不遇な上級モデル 前編

公開 : 2022.06.05 07:05

フィアットとの関係を巧みに利用したアバルト2200 スパイダー。希少なオープン2シーターを英国編集部がご紹介します。

直列6気筒エンジンを積んだ上級モデル

優勝パレードのように、ゆったりと走る。地元の人や家畜たちを驚かせずに済む。英国南部、四季の豊かなニューフォレストの自然公園を、イタリア生まれのスパイダーで流す。どちらも、惚れ惚れするほど美しい。

今日は肌寒かったものの、周囲はすっかり春めいていた。アバルトに乗る筆者は満面の笑みで、今の時間を味わう。まれに野生動物が不意に姿を表し、反射神経も求められるが。

アバルト2200 スパイダー(1959〜1961年/英国仕様)
アバルト2200 スパイダー(1959〜1961年/英国仕様)

クラシックなアバルトと聞いて、甲高いエグゾースト・ノートを放つ、コンパクトでアグレッシブなスポーツカーを想像するかもしれない。レーシングカー風の様相と、アフターファイヤーのパンパンッという破裂音を。

だが、2200 スパイダーはもう少し上品だ。その最大の理由が、ピーキーな2気筒や4気筒ではなく、ゆったりとした直列6気筒エンジンを積んでいるから。搭載位置もフロント側だ。

赤く塗られたコンバーチブル・ボディは至って端麗。地中海が似合う、どこか謎めいた雰囲気を漂わせている。

多くの人の記憶から消えてしまったであろう、アバルト2200 スパイダー。絶滅寸前のモデルだからこそ、もう一度振り返っておきたい。サソリがトレードマークのアバルト&C社が、エキゾチックな上級モデルに取り組んだ頃の作品だ。

モータースポーツとの関わりが濃く、小さなクルマを得意としたブランドとしては、飛躍といえる展開だった。とはいえ創業者のカルロ・アバルト氏は、いつも広い視点から大胆な行動を取ってきた。

クラス優勝も含めて7300勝の活躍

多くの分野で、短期間に成功を重ねたカルロ。ひと回り大きいクルマを手掛けることも、次のステップとして必要だと考えたのだろう。計画はしっかり練られ、準備も抜かりはなかった。

1908年11月、オーストリア・ウイーンで生まれたカルロは、第二次大戦の勃発前にはバイクである程度の名声を掴んでいた。終戦後にイタリアへ移り住むと経験を買われ、レーシングカー・メーカーのチシタリア社でグランプリカー計画の技術者に抜擢された。

アバルト2200 スパイダー(1959〜1961年/英国仕様)
アバルト2200 スパイダー(1959〜1961年/英国仕様)

しかし、フェルディナント・ポルシェ氏も関わったものの、参戦することなく中断。完成したシングルシーターのレーシングカーは、アルゼンチンでスピード・レコードを樹立している。

カルロは1949年に独立。エグゾーストなどのチューニング・パーツを製造し、独自に販売を始めた。他人からの助言を求めないような人物だったが、マーケティングの才能には長けていた。

競合メーカーはいくつかあったが、アバルトほど巧みに自動車ファンへ訴求したところはなかった。多くの自動車ジャーナリストをワークスドライバーに起用することで、肯定的な情報発信へとつなげたのだ。

活動の幅を広げたカルロは、1958年にアバルト&C社を設立。フィアットでレースに参戦し、勝利する度に同社から報酬を受け取るという契約を取り付けるに至った。

以来、1971年までにアバルトはクラス優勝も含めて、7300勝を挙げたとされる。トリノの巨大自動車メーカーは、少なくない金額をカルロへ贈ったことになる。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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