可憐なボディに直6エンジンのサソリ アバルト2200 スパイダー 不遇な上級モデル 前編

公開 : 2022.06.05 07:05

生産台数の多い自動車メーカーとして模索

設立から数年後には、アバルト&C社はイタリアのアフターマーケット市場で、圧倒的な地位を築いていた。彼が生み出した小さなスポーツモデルの多くには、車体製造を専門とする企業、カロッツエリアによる専用ボディが与えられた。

それだけに留まらず、カルロは生産台数の多い自動車メーカーとして模索も進めていた。その初期の成果といえるのが、1959年のトリノ・モーターショーで発表されたアバルト1600だ。

アバルト2200 スパイダー(1959〜1961年/英国仕様)
アバルト2200 スパイダー(1959〜1961年/英国仕様)

フィアット1500用のシャシーをベースに、フィアットの1.5Lツインカム4気筒エンジンを搭載。ボディのスタイリングを担当したのは、カーデザイナーのジョヴァンニ・ミケロッティ氏で、クーペとスパイダーという2種類が提案された。

ボディの生産を請け負ったのは、イタリア・トリノのカロッツエリア、アッレマーノ社。後に2+2仕様も追加されている。そして、同じ1959年に発表されたのが、今回ご紹介するアバルト2200だ。

イタリアは排気量に対する規制が厳しく、当時は2.0L以上に高額な税金が課せられていた。それでも、アルファ・ロメオはミドルクラスの1900で成功を収めると、2000を投入。ランチアも2.5Lのフラミニアを投入するなど、上流志向の流れは明らかだった。

アバルト&C社のパトロン的存在だったフィアットも、落ち着いた雰囲気のサルーンとして、直列6気筒エンジンの2100を発売した。それが、アバルト2200のベースになった。

ミケロッティのボディに137psの直列6気筒

アバルト2200のエンジンは、シリンダーの内径、ボアを77mmから79mmに拡大。排気量は2054ccから2162ccへ引き上げられ、ピストンの変更で、圧縮比も7.8:1から9.5:1へ上昇した。

さらにトリプル・ウェーバー・キャブレターと大容量のオイルサンプ、アバルトらしく専用のエグゾーストも組まれた。その結果、最高出力はフィアット2100の83psから137psへ、大幅な向上を果たした。アバルトの数字を信じるなら。

アバルト2200 スパイダー(1959〜1961年/英国仕様)
アバルト2200 スパイダー(1959〜1961年/英国仕様)

シャシー側は、ベースのサルーンから約200mmホイールベースを短縮。独自の4速MTと高いファイナルレシオを持つデフが組まれ、ダンパーも強化品へ置換された。ブレーキは、ダンロップ社製のディスクが前後に与えられている。

スタイリングを担当したのは、1600と同じく巨匠ミケロッティ。この時代らしい、エレガントな2+2のクーペボディが描き出された。

他方のスパイダーは、斜めに左右2灯づつレイアウトされたヘッドライトが不評を買った。その結果、クーペと同様に一般的な丸目2灯へ急遽変更されたという。

ボディ製造を担当したのも、やはりアッレマーノ社。近年ではあまり耳馴染みのないカロッツエリアだが、60年ほど前までは多くの作品を手掛けていた。

創業は1929年。セラフィノ・アッレマーノ氏が一般的な自動車修理業からスタートさせ、家族経営で1950年代に急成長を遂げた。得意としたのが、フィアット500や600をベースとしたアバルト仕様のボディだった。

ほかにもマセラティ5000GTや、ATS 2500 GTというスーパーカーのボディも仕上げている。しかし、1965年に倒産してしまう。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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