バンドのジャケ写に抜擢 オースチン・アトランティック・コンバーチブル 神秘的な流線型 後編

公開 : 2023.01.15 07:06  更新 : 2024.01.16 07:50

3灯ヘッドライトに流線型ボディの神秘的なアトランティック。見事にレストアされた1台を英国編集部がご紹介します。

アルファ・ロメオ6C-2500に影響

強い印象を残すオースチンA90アトランティックのスタイリングは、1946年にピニンファリーナ社が仕上げたアルファ・ロメオ6C-2500に影響を受けたとされる。それを知ったファリーナは喜び、半年間もコンバーチブルを借りていたという。

オースチンのマネージング・ディレクターを務めていた、ジョージ・ハリマン氏もオーナーだった。そのクルマは、新モデルのA30のスタイリングを手掛けるために渡英していた、デザイナーのホールデン・ボブ・コト氏へ売られた。

オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)
オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)

ボディを観察すると、フェンダーラインやテールライトに至るまで、当時の特徴的な要素が散りばめられていることがわかる。流線型のスタイリングをまとめたのは、社内デザイナーのディック・バージ氏だ。

神秘的な表情を作るフロント中央の3番目のヘッドライトは、その筆頭だろう。ホールデンが所属していた、工業デザインの父と呼ばれるレイモンド・ローウィ氏の事務所が、フォードやスチュードベーカーなどへ提案していたものに通じる。

北米市場を意識し、6C-2500にならって、コンバーチブルは多くのクロームメッキ・トリムで飾り立てられた。当時としては最先端の、電動油圧式パワーウインドウとソフトトップ・システムも採用された。英国の量産車としては初だった。

エンジンは、オーバーヘッド・バルブの2660cc直列4気筒。後に改良を受け、オースチン・ヒーレー100にも搭載されている。そのためA90アトランティックは、ヒーレー100の部品取りになることも多かった。7981台が生産されたが、残存数は少ない。

北米では期待ほどの人気を得られず

コンバーチブルは、1950年12月に3718台で生産が終了されたといわれる。1951年に、極少数が追加で組み立てられたという説もある。それと時期を重ねるように、1950年1月からクーペが生産された。

「コンバーチブルの価格は、オプションのパワーソフトトップ付きで952ポンドでした。1950年に824ポンドへ安くなっていますが、クーペの生産が1950年から始まったことで、効率化が進みコストが下がったのでしょう」

オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)
オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)

「北米価格は、4006ドルから2998ドルへ大幅に下がっています。これは為替レートによるもの。多売を考えた、苦肉の策ではありません」と説明するのは、現オーナーのデイビッド・ホワイリー氏だ。

A90アトランティックは、アメリカのインディアナポリス・スピードウェイで、1949年にスピード記録へ挑んでいる。当時のモータスポーツ誌は次のように報じている。

「インディアナポリスでオースチンA90が樹立した、ストックカーとしての記録には驚かされます。チャールズ・グッドエーカー氏とデニス・バックリー氏、アラン・ヘス氏という3名のドライバーが3時間連続で走り、過去を塗り替えました」

しかし、A90アトランティックは北米市場で期待するほどの人気を得られなかった。イングランド製として優れた品質は認められたが、販売台数は伸びなかった。その反面、オーストラリアでは強い支持を集めている。現在でも注目度は高い。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジュリアン・バルメ

    Julian Balme

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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