バンドのジャケ写に抜擢 オースチン・アトランティック・コンバーチブル 神秘的な流線型 後編

公開 : 2023.01.15 07:06  更新 : 2024.01.16 07:50

基本的に無傷でオリジナル状態を保っていた

英国のように四季の変化が大きい土地では、コンバーチブルは短命になりがち。70年も前のモデルとなると、フロアパンが抜けてしまうことも多い。輸出前提だったこともあり、状態の良いアトランティックはグレートブリテン島には殆ど残っていない。

FPN 717のナンバーで登録された今回のクルマは、1950年12月にラインオフした。ボディ番号は3688番。1951年5月にグレートブリテン島南部のイースト・サセックス州に住む男性が購入したという。

オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)
オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)

「2年後に西のハンプシャー州に住むオーナーのもとへ移り、1967年に155ポンドで中古車販売店から売りに出されています。その時点で、ボディはジャガー・ホワイトに塗られ、ビニール製のソフトトップに交換されたようです」とホワイリーが説明する。

「そこでの走行距離は5万9500km。1972年まではロンドンの男性が所有し、その後にデイブ・クロッパーさんが購入しています」

次のオーナーになった、ヴァーノン・コックス氏の倉庫から引きずり出された時点での走行距離は7万4000kmだった。基本的にボディ自体は無傷で、オリジナル状態が保たれていた。

ホワイトのペンキは浮き、グリーンのパイピングが施されたクリーム色の内装は崩れ、クロームメッキはくまなく錆びていた。高圧洗浄機でボディを洗い流すと一部が剥がれ、当初のメタリック・シーフォーム・グリーンが顕になったそうだ。

エンジンは始動しなかった。それでも、長期保管されたことで21世紀まで生き抜くことができたといえる。

8年間のレストアで蘇った新車時の姿

ホワイリーは新車時の姿に蘇らせるべく、レストアに着手。可能な限り自らの手で進めながら、8年間の持久戦を完遂させた。

自らの誇りをかけて、作業には一切手抜きをしなかった。電動油圧式のソフトトップには42個の油圧ジョイントが用いられていたが、その1つ1つに向き合った。

オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)
オースチンA90アトランティック・コンバーチブル(1948〜1950年/英国仕様)

「将来のアトランティックのオーナーが、オースチンのロングブリッジ工場を旅立った時の姿を、正確に知ることができるようにしたいと考えました」。と話すホワイリーは、誇らしそうな表情を浮かべる。

仕事の水準が、オースチンとしてトップクラスの職人技とデザインを際立たせる。個性的だが、フラッグシップ・コンバーチブルらしい風格を漂わせる。

彼の献身的な努力の成果は、評価しきれないほど見事な域にある。インテリアのスイッチやステアリングホイールまで、専門家を唸らせる美しさ。部品の多くは、オーストラリアから取り寄せたそうだ。

仕上がりは、ペブルビーチ・コンクール・デレガンスへの出展にも相応しい。撮影の合間には、短時間ながら筆者も運転させてもらった。恐らく、70年前の質感を体験できたに違いない。

このA90アトランティックと、ザ・スターゲイザーズのドラマー、リッキー・ブラウン氏との再会は印象深いものになるだろう。偶然にもロックバンドは再結成し、取材時にはイタリアでツアーを実施していた。

タイミングが合えば、彼との再開も叶うはず。アルバム、「ウォッチ・ディス・スペイス」のジャケット写真のように、満面の笑みを浮かべることだろう。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジュリアン・バルメ

    Julian Balme

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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