公道へ舞い降りた「F2マシン」 F1も開発したエメリー親子 唯一のナンバー付きエメリソン(1)
公開 : 2024.03.31 17:45
単気筒エンジンの前輪駆動マシンも開発
当時の自動車雑誌、ザ・モーター誌は次のように報じている。「素晴らしいスタートを切りました。前後独立サスペンション、チューブラーフレーム、ツーステージ・スーパーチャージャーを備えたマシンで成功を収めたことには、驚かずにいられません」
「コンストラクターには時間がなく、ボディを完成できなかったのが残念です。ゼッケンを記載できず、スピードは測れていません」
1947年シーズンを、エメリソンは成功で締めくくった。その後、400馬力のドラージュ社製直列8気筒エンジンへ換装するなど、親子は研究を進めるが、資金繰りが常に足を引っ張った。
1950年には、より身軽な開発を求め、比較的低い予算で参戦できる500レースという規格へスイッチ。50psの1気筒エンジンという制約に合わせて、新マシンの準備が進められた。
非力な条件を補ったのが、前輪駆動化。エンジンを前方に載せ、ドライバーはその後方へ座り、シャシーバランスを改善。冷却性も高めることができた。
「一定の重さと馬力までは、前輪駆動はロードホールディング性やバランスでアドバンテージがあります」。1950年のシリーズ戦を優勝したポールは、メディアの取材に対し言葉を残している。
F1にも参戦 新体制でF2マシンを開発
資金繰りに悩まされながら、エメリソンは1950年代半ばからF1に参戦。フロントにコイルスプリングとウイッシュボーン、リアにドディオン・アクスルを採用した、スペースフレーム・シャシーが設計された。
エンジンは、当初アストン マーティンDB3からの流用だったが、開発が進展すると耐久性で勝るアルタ社製ユニットへ変更。1956年の英国グランプリでは、高順位で予選を通過している。だが、点火系の不調で本戦はリタイアに終わった。
1958年までマシンの改良は続けられたが、戦力は高まらず、ヒルクライムレースへ転向。レーシングカー・コンストラクターのコノート社と協力関係を築き、1960年代は同社のアラン・ブラウン氏がエメリソンのマネージメントを引き継いだ。
安定した体制下におかれたことで、ポールは技術開発へ専念できる環境を獲得。新しい、F2マシンの設計へ取り組んだ。
スペースフレーム・シャシーの後部へ載ったのは、コベントリー・クライマックス社製のFPF 1.5Lエンジン。1961年のシルバーストン・サーキットで開催されたコマンダー・ヨーク・トロフィーでは、マイク・スペンス氏のドライブで勝利を掴んでいる。
と、波乱万丈の歴史を持つエメリソンだが、JCM 700のナンバープレートを持つ1台は、その末裔。低く滑らかなボディは、シルバーストンの古いピットが良く似合う。
このクルマをオーダーしたのは、レイ・フィールディング氏。それまでのモータースポーツでの経験を知っていた彼は、ロードゴーイング・レーサーの製作をエメリソンへ依頼したのだろう。
この続きは、唯一のナンバー付きエメリソン(2)にて。