共産主義が生んだ奇抜なクルマ 21選 東欧メーカーの名車・珍車紹介
公開 : 2025.03.16 18:45
東西冷戦のさなか、鉄のカーテンの裏側でどんなクルマが作られていたのか。今回は東欧諸国やロシアの自動車メーカーが生み出した、興味深いクルマを21台紹介します。
もくじ
ー鉄のカーテンの裏側で
ーザスタバ750(1955年)
ータトラ603(1956年)
ースコダ1000 MB(1964年)
ートラバント601(1964年)
ーヴァルトブルク353(1966年)
ーZAZ 966(1966年)
ーダチア1300(1969年)
ーラーダ2101(1970年)
ースコダ110 R(1970年)
ーザスタバ・スカーラ(1971年)
ーポルスキ・フィアット126p(1973年)
ーラーダ・ニーヴァ(1977年)
ーオルトシット(1981年)
ーダチア・スポーツ(1983年)
ーラーダ・スプートニク/サマーラ(1984年)
ーユーゴ(1985年)
ーダチアMD87(1987年)
ースコダ・ファヴォリット(1987年)
ーヴァルトブルク1.3(1988年)
ートラバント1.1(1990年)
ーラーダ111ターザン2(1999年)
鉄のカーテンの裏側で
トラバントやラーダのような有名なクルマは、東欧およびロシアの自動車産業の氷山の一角に過ぎない。
共産圏の国営自動車メーカーは、限られた資金で何百万もの人々にクルマを提供した。市街地用の小型車、オフロード車、業務用の広々としたバンなど、ニーズは様々だった。海外市場を狙ってデザインを重視するメーカーもあれば、レースに強い関心を示し、時には経験豊富なライバルを打ち負かすメーカーもあった。

今回は、イタリアの遺伝子を受け継いだ地味なエコノミーカーから実験的なミドシップクーペまで、東欧およびロシアの自動車産業が生み出したヒット作、失敗作、そして奇妙なクルマをご紹介しよう。なお、ここに示すのは、ほんの一例である。
ザスタバ750(1955年)
旧ユーゴスラビアのザスタバは1954年にフィアットと提携し、1400というモデルの製造を開始した。しかし、比較的大型で高価だったため、ユーゴスラビアではほとんど売れなかった。そこで低価格路線に転換し、当時新しかったフィアット600の製造ライセンスを取得した。初期のモデルはイタリアから部品を輸送し、現地で組み立てられていたが、需要の高まりを受けて一から製造するようになった。
600はザスタバの管理下で何度か変更が加えられ、それに伴い車名も750になったが、スペインのセアトが製造した4ドア・ボディスタイルほどの極端な改造は行われなかった。最終進化型の850では、最高出力32psの848cc 4気筒エンジンが搭載され、0-100km/h加速29.4秒という性能を持つ。それに対し、初期の600は最高出力21.5psで、0-100km/h加速には1分以上を要した。

タトラ603(1956年)
タトラは自動車デザインの歴史に独自の章を刻んだ。1956年に発表された603は、今日でも通用する空力特性に優れたボディと、乗客用コンパートメントの後部に搭載された空冷式V8エンジンを持つ、非常に先進的なモデルであった。
東欧では、タトラ603は恐怖と支配の象徴でもあった。なぜなら、主に政府高官によって使用されていたからだ。早朝に自宅の前に停まっているのを見たくないクルマである。タトラは一部の車両を輸出したが、キューバのフィデル・カストロがエアコン付きの白いモデルを手に入れたのもそのためだ。

スコダ1000 MB(1964年)
チェコのスコダは1000 MBの開発にあたり、西側諸国に目を向けた。当時、西欧で人気のあるクルマ(フォルクスワーゲン・ビートル、ルノー8、フィアット600など)はリアエンジンを採用していた。同社はフロントエンジン&前輪駆動(FF)、フロントエンジン&後輪駆動(FR)のプロトタイプを試したが、最終的にリアエンジン&後輪駆動(RR)のレイアウトを選択した。FFはあまりにも大胆すぎると考えられ、FRは旧式のオクタビアに近すぎるとの理由で却下された。
1000MBの製造は1969年に終了したが、スコダは1990年までリアエンジン車を作り続けた。
